メッセージ(南沢満雄師)
 神の血による解放

 神の国への入門はいつでも血の贖いが必要である。サタンとエジプトのパロ王からの脱出の決め手は、
子羊の血であった。モーセは10の奇跡を王の前に展開したけれども、王は自由を許さなかった。

主イエスが数々の奇跡を為されたゆえに、人は救われたであろうか?最後の決め手は十字架における
血の贖いに依らなければならなかった。幕屋は神の臨在の場であり、神の国のひな形である。

外界即ちサタンの支配下からいかにしてその中に入ることが可能であるか。やはり、子羊の血が必要である。
幕屋自体も、祭司自体も、その血を振り掛けられること無しに主の臨在の中に入れないのである。

パロの臣下には霊能者たちが控えていた。その霊的な力が十重二十重に、国を縛りイスラエルの民にまで及んでいたのである。だから血の贖いなしに解放はありえなかった。

贖いとはサタンの支配から、聖霊の支配へと解放するための代価であり犠牲である。聖霊の油注ぎは、血の代価が払われ、その効力が信仰をとうして引き出された時に与えられる。

十字架上で流された血は、霊的解放をもたらし、霊への聖霊の永住をもたらす。ゲッセマネで流された血は、意志や心情を贖い聖霊の油注ぎを心情的思いの面にもたらす。

思いは一新され、清められて聖霊様の思いに共感共鳴させられるのである。ムチで傷つけられ、主の背から吹き出した血は、私たちの肉体へと油注ぎをもたらす。夜、胸にひどい圧迫を受けて苦しかった。

主の流された神の血潮を頼って、攻撃してくる病の霊に退散を命じた。しばらくして安らかな眠りに入ることが出来た。

朝、誰かが自分に按手の祈りをされている夢をみせられ、快調な状態で起き上がった。

主が呪われイバラの冠で傷つき流された血潮は、私たちの生活、環境にある悪霊の呪いから解放して下さり、聖霊の油注ぎを経済面、職場の人間関係や、政治その他のより広い分野にまでもたらされる。

主の血潮が我々の霊、魂(心)、体、そして生活の全分野に解放を、即ち聖霊様のご支配をもたらし、聖霊様が自由に働かれる場を備えて下さる。だから、私たちは主の贖いの血の価値をもっともっと評価し、その偉大な解放の力に頼ろうではないか。その時、解放感を味わい、この新しい年がすばらしい恵の日々となる。