メッセージ(大谷孝志師)

新しい時のはじまり
 向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2017年4月2日
聖書 マタイ4:18-22 「新しい時の始まり」   牧師 大谷 孝志

 今は主の十字架の死の意味を心に刻む受難節です。私はこの教会の牧師として招聘され、3月29日から牧師として働かせて頂いています。

 イエス様はある日、ガリラヤ湖のほとりを歩いていた時、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になり、彼らに語り掛けました。二人にとって新しい時が突然始まったのです。私達にとって、教会との出会い、主イエス様との出会いも突然起きたのではないでしょうか。私は高校1年生の時に「新しい時」が突然始まりました。母が教会に行くように熱心に勧めました。子育てに自信を無くしていた母は、キリスト者ではありませんでしたが、教会が好きでした。近くに住むキリスト者の先輩に誘われて教会の集会に時々出ていました。私は勧められて、イベントや礼拝に渋々行きました。嫌ではなかったが、自分から礼拝に行こうとは思いませんでした。町で先輩のキリスト者に「教会のクリスマス会があるけれど来ないか」と誘われました。彼の笑顔にふと行こうかと思ったのです。彼は駄目かも知れない、でも誘ってみようと思って誘ったのでした。それが伝道なのです。駄目で元々なのです。でも誘わなければ人は教会には来ないのです。昼間のCSのクリスマス会に出て、親しみを感じ、高校の冬期講習に出た後、夜の燭火礼拝にも出たいと思いました。主が「人間を取る漁師にして上げよう」と言われた訳ではありません。しかし主が先輩の高校生を通して「私に付いて来なさい」と招いたのです。主が働き掛けて下さり、私にとっての新しい時が突然始まったのです。

 教会の高校生、大学生の先輩、壮年の男性、女性が友達に話し掛けるように私に話し掛けてきました。これも伝道なのです。話し掛けて相手との人間関係ができると、自分の思いを相手に伝える機会ができる可能性が生まれます。新しい時が始まる可能性が生じるのです。相手に語り掛けることの大切さを教えられます。イエス様に話し掛けられた時、ペトロ達は漁の真っ最中でした。彼らの後に話し掛けられたヤコブとヨハネは漁を終え、父ゼベタイと一緒に舟の中で網を繕っていた時でした。今しなければならない事、明日の為にしなければならない事を一所懸命にしている最中に、主に語り掛けられたのです。イエス様はガリラヤ湖畔の町カペナウムに住み、既に宣教を始めていました。ですから、イエス様のことは知っていたと思います。しかし突然語り掛けられてびっくりしたでしょう。ペテロとアンデレは、直ぐに従いたくなるものをイエス様に感じたのでしょう。彼らは、直ぐに網を捨て、ヤコブとヨハネは舟も父も残して主に従いました。

 イエス様がペテロ達に語り掛け、彼らに新しい時の歩みを始めさせたのは、主がそれを必要としたからです。私はこの教会の招聘を受けるようにとの主の御心を示されました。私と妻と娘、そしてこの教会の皆様に新しい時を始めることを主が必要とされていると私は信じ、主に従ってこの教会に牧師として来ました。そして私と私の家族と皆様は、一つのキリストの体の各部分となって、今、新しい時の始まりを共に経験しているのです。
 「私について来なさい」と言われたペテロらは全てを捨てて主に従いました。当時のこの招きはユダヤ教教師の弟子として、生活を共にすること、新しい生活に入ることを意味しました。彼らはそれまでの生活を捨てて、新しい時を歩み始めたのです。私達はかつて教会に来て福音に触れて、イエス様を信じ、新しい時を歩み始めました。主を信じ救われて、人生観、価値観が、付き合う人も付き合い方も大きく変わりました。皆様に今、新しい牧師家族を迎えて大きな変化を経験しています。この新しい時の歩み始めに、不安を感じる方もいるしょう。人は、他人の心も主の御心も推察するしかないからです。しかし主の招きに従った弟子達には何の不安も感じられません。目の前に主がいて、その主が自分達を招いたからです。

 私達は新しい時を歩み始めています。これを主の御心と信じましょう。ここに主はいます。しかし私達には主の御姿は見えないし、御声も聞こえません。ですから、不安を感じてしまうのは人として仕方がないことだと思います。だからこそ、私達は心を静めてここにいる主の御声に耳を傾けましょう。主は私達に「不安も恐れも感じなくて良い、安心しなさい。私があなた方を導いているよ」と語り掛けているからです。主は、いつも一緒にいると私達は信じています。その信仰にしっかりと立ちましょう。

 とは言え、弟子達が羨ましくなる時があります。イエス様のお姿が見え、御声が聴けたらどんなに嬉しく、幸せだろうと思うからです。でも、復活後にトマスに言った主の言葉「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる人は幸いです」を思い出して下さい。主は「見ずに信じる信仰」を求めています。復活の主はガリラヤの山で弟子達に「見よ、私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる」と言いました。主はいつも私達と共にいるのです。この事を信じれば良いのです。ラザロが死んで四日後に墓穴を塞ぐ石を取り除けなさいと主に言われ、今となってはそれは無駄な事です、と主に恨み言を言った彼の妹マルタに「もし、信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と言いました。主に不可能はありません。私達は将来の事を心配せず、全てを主に委ね、心を新たにして、主と共に歩み始めましょう。全ての事を益として下さる主が共にいます。主は、私達を愛し、必要な時に必要なものを与えて成長させ、栄光を顕して下さいます。