メッセージ(大谷孝志師)

恵みの世界に生きる為に
 向島キリスト教会 聖日礼拝説教 2017年4月9日
聖書 マルコ10:35-44 「恵みの世界に生きる為に」 牧師 大谷 孝志

  今日は主イエス様が十字架に掛かって死ぬことになるエルサレムに来たことを記念する「しゅろの聖日」です。主はエルサレムに行く前に、二人の弟子を遣わし、ロバの子を引いてこさせます。彼らがロバの子を引いて来て、自分達の上着をその上に掛けると、主がそれに乗ってエルサレムに向かいました。多くの人が自分達の上着を道に敷き、他の人々は木の葉を枝ごと野原から切って来て道に敷き、叫んだのです。上着を敷いたのは、U列王記9:13にあるように、彼らが、神が王とした人を称える為でした。 人々の喜びがこの行為に現れています。この日が「しゅろの聖日」と言われるのは、ヨハネ12:13にその木が「しゅろ」と書かれているからです。

 人々は自分達の現状を変える力ある王として主イエス様を称えたのです。人々は変化を予感したからです。主はルカ24:19によると「神と全ての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者」でした。その主が、神殿があり神の都と呼ばれていたエルサレムに来たのです。人々が、主の祝福を得、幸せになれると思ったのは当然でした。主は確かに、人々の求めるものを与える為に来ました。しかしそれは、御心が実現する為に必要なものとして、主が人に与えるものでした。人々が願っているものとは異なるものだったのです。イエス様がロバの子に乗って来たのは、ご自分が人々が期待するような民を力で統治する王ではないことを示す為でした。しかし人々は、主が子ロバに乗って、エルサレムに来た意味を理解出来ませんでした。

 先程お読み頂いた箇所は、イエス様がエルサレムに入られる少し前に起きたことです。主は「私達はエルサレムに向かって行きますが、そこで、人の子(主イエス様)が嘲られ、唾を掛けられ、鞭打たれ、殺されることになります」と、十二弟子を側に呼んでと話したのです。これは「受難告知」と呼ばれるもので、これが三度目でした。私達がその場でこれを聞いたら、ぞっとして言葉を失うのではないでしょうか。しかし、弟子の中のヤコブとヨハネはその主の所に来て「頼み事を叶えて」と願い出たのです。そして主が彼らの願いを聞くかのような返事をしたのを聞いて、他の十人は二人のことで腹を立てています。この一連の出来事は、弟子達の主の十字架の死についての無理解と自己中心性を明らかにしています。私達もこの出来事の学びを通して、主イエス様の十字架の死をどれだけ真剣に受け止めているか、自分の信仰を吟味し、心を新たにして受難週を過ごしましょう。

 二人は自分達を弟子達の中での最高位につけてと願いました。彼らは自分達さえ幸せに成れれば良かったのです。他の十人の事も主の事も全く考えていません。私達は彼らを決して笑えません。同じような弱さと罪を持っているからです。信徒が福音に相応しく生きようとしても、心の中には古い自分がいて、この二人のように自分にだけ目を向けさせようとします。ですから信徒であるなら変わる必要があります。信徒は主イエス様が自分達を罪から解放し、神と共に生きる者とする為に十字架に掛かって死んだことを信じて、救われているからです。それだけではありません。主の「私に従い、私のように生きなさい」との命令を知っているので、謙遜、柔和、寛容を身に着け、相手の為に生きようとしています。教会に来て福音を知り、主が相手と共に幸いに生きられる道を開いたと知ったからです。求道中の方もそれを否定できないから礼拝に来ています。だから世の人々とは違います。私達は恵みの世界に生きているし、生きようとしているのです。

 主イエス様は二人に「私の飲もうとする杯を飲み、私の受けようとするバプテスマを受けられるか」と尋ねました。これは、あなたがたは自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従えるかと主が尋ねているのです。人が神の恵みの世界に生きる為に主が求めていることです。しかし、全てを捨てて、主に従って生きるのは容易ではありません。自分にのみ目を向けさせる悪の力が働くからです。しかし主を信じるなら、克服出来ます。主は豊かな恵みを与え、弱く貧しい私達を愛し、必要なものを与えていて下さっているからです。これを「先行する主の恵み」と言います。主の恵みを数えましょう。そうすれば恵みの世界の中に生きていると分かります。

 私達が今の恵みの世界に生きる為に、主イエス様は嘲られ、唾を掛けられ、鞭打たれ、十字架に掛けられて殺されたのです。しかし、主を迎えた群衆は神の国が到来し、主が栄光を現す時が来たと喜びました。人は自分の知恵と経験で判断し、目で見たものを事実とします。上辺を見るだけで、真実を見抜けません。ですから主は子ロバに乗って来るという姿を見せることで、神の国は武力等の人の力によって到来するのでないと教えたのです。神の国は、私達が主に仕え、主を運ぶ人、主の働き人となることによってこの世に実現すると教えたのです。言い換えれば「御国を来たらせ給え」との祈りを私達が実践していくことによって神の国は到来するのです。

 私達は霊的に力弱く貧しくても、計り知れない神の力を私達という土の器の中に入れているとパウロはコリントU4:7で教えます。私達も世の人が救われ、恵みの世界に生きる為に、福音を伝える主の証人になれます。感謝!