メッセージ(大谷孝志師)

同行(どうぎょう)三人の幸い
向島キリスト教会 イースター主日礼拝説教 2017年4月16日
聖書 ルカ24:13-32 「同行三人の幸い」 牧師 大谷 孝志

 今日は主イエス様が十字架に掛かって死に、三日目に復活したことを感謝してお祝いするイースターです。主は復活して今ここに共にいます。ここだけではありません。私達がどこにいても主は一人一人と共にいて下さいます。それが私達の信仰生活の基礎と言えるものです。しかし私達は、主が共にいることを頭では分かっていても、自分の生活を振り返るとその現実を実感できていなかったと反省することが多いのではないでしょうか。今日の箇所はそのような私達にとって励ましと勇気を与えてくれます。

今日の題は「同行三人」ですが、四国のお遍路さんの傘には「同行二人」と書き付けてあります。これはお遍路さんは一人で歩いても常に弘法大師がそばにいて、その守りを受けているという意味です。なぜ今日の題で三人にしたかと言うと、主が復活した日、エルサレムを離れ、エマオにある自分の家に帰ろうとした二人の弟子に近づき、主が共に歩いたからです。その事によって、彼らは失望と挫折から立ち直り、喜びと希望をもって生きる者となりました。それで「同行三人の幸い」という題を付けたのです。

 二人の弟子は、イエス様を「神とすべての民の前で、行いにもことばにも力ある預言者」と見ていました。預言者は神から預かった言葉を人々に告げる人です。主を神が御心を示し、行う為に選んだ特別な人と知っていたのです。それだけでなく、この方こそ、イスラエルを贖って下さる筈だと望みを掛けていました。贖うとは身代金を払って人を釈放することです。罪の奴隷となっていたイスラエルを、主が十字架の死という代価を払って神が支配する世界に生きる人々にすることを意味します。二人もイエス様がそのような方であると、頭では分かっていたのです。しかし主が十字架に掛かって死に、埋葬されて三日目になっても何も起きないので、彼らはエルサレムを去り、自分の故郷のエマオに帰ろうとしたのです。彼らはイエス様と出会い、新しい時代の到来を感じ取っていました。主の教え、主が行うしるしや奇跡を見て、その確信を強めていました。しかし主の逮捕と受難、十字架の死に彼らは大きなショックを受けたのです。しかしこれには意味があり、新しい時が始まる為に必要な出来事だと考えられる内は、彼らはエルサレムに留まり、待つことができました。しかし何も起きず、自分達の期待は無駄だったと思い、エルサレムを去ることにしたのです。素晴らしい事が起き、新しい時代が到来しているのに去ろうとしたのです。

 彼らは知らなかったのでしょうか。彼らは仲間の女性達が御使いから、主は生きていると告げられた事実を聞き、驚いています。主が復活したと聞いていたのです。しかし、それを事実と受け止められなかったのです。

私達は復活した主がここにいると思うから、礼拝に来ています。そうしている私達ですが、世に生きていると、失望したり、挫折したりする時があります。二人の弟子達は主を信じ、主に従っていました。しかし失望し、挫折していました。しかし主は彼らを見て、彼らの思いを知っていたのです。そして彼らが現実を知り、真理を悟れるように、主の方から彼らに近付き、語り合ったのです。主は私達にとってもそのような方であると知るなら、彼らがこの出来事により大きく変わったように、私達も変われます。

 主が彼らに言ったように、失望し、挫折した時の私達は愚かだったのです。マタイ28:20で主は「私は、世の終わり迄、いつも、あなたがたと共にいる」と言いました。その主は私達の全てを知り、必要な時に必要なものを与える方です。それなのになぜ失望し、挫折するのでしょう。私達が変わる為なのです。Uコリント1:8-10でパウロは、心の中で死を覚悟する程の苦難に遭ったのは、もはや自分自身を頼まず、死者を甦らせて下さる神に依り頼む者となる為だったと言います。私達も、彼らのように失望し挫折しても、今生きているなら、神が私達をただ神にのみより頼む者に変える為に、この状況に置いたと気付きましょう。主を信じているなら、失望し挫折しても、これは御心だと信じ、神に全てを委ねられる時が来るから幸いなのです。その事を二人の弟子に起きた出来事を通して知らされます。

 彼らは、失望と挫折から立ち直り、喜びと希望をもって生きる者となりました。先ず主が、彼らに前もって言った十字架の死と復活について教えた言葉を思い出させたからです。次に主が、御自分について書いてある聖書の言葉を彼らに説き明かしたからです。主は失望や挫折を感じた私達の心にも「主について知らされた言葉」を思い出すよう働き掛けているのです。更に、礼拝や集会等の交わりの中で、主は人の言葉を用いてご自身について教えているのです。私達が彼らのようにそれに気付けず、人の言葉としてしかそれを聞けないと、不安や恐れの虜になったままです。彼らは主が共にいたことを知りました。主がパンを取って祝福し、裂いて自分達に渡した時、彼らの目が開かれ、自分達と共に歩き、聖書を説き明かし、パンを渡した人が主だと分かったのです。彼らは変えられました。そして主が道々話し、聖書を説明された時、心が内に燃えたことに気付きました。

 この出来事は、礼拝と信仰生活について大切な事を教えています。礼拝は主が共にいる現実を確認できる時なのです。主は十字架に掛かって死に、復活していつも共にいます。しかし私達はその真実を忘れる時があります。復活の主が共にいるのに失望し、挫折したりします。ですから礼拝が大切なのです。主は礼拝する私達に、人の言葉を通して主の十字架と復活の意味を、主が共にいる現実を知らせているからです。主と共にいる現実を知り、喜び、感謝し、希望を持ち、心が内に燃えて生きる者になりましょう。