メッセージ(大谷孝志師)

見ずに信じる幸い
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年4月23日
聖書 ヨハネ20:26-31 「見ずに信じる幸い」 牧師 大谷 孝志

 私達はイエス様、父なる神様、聖霊様の三位一体の神様を礼拝しています。なぜ礼拝するかと言えば、ここに神様がいると知っているからです。目には見えませんが、私達の讃美と祈りを主は聞いていると信じるから、主を讃美し、主に祈ります。主は私達を御言葉をもって養い、導き、励まし、勇気を与え、疲れ、傷付いた心を癒して下さるから、礼拝しています。

 私はこの教会に遣わされた牧者として、聖書を通し、祈りつつ準備する中で示された言葉を、主の御言葉、主の御心として語っています。私自身もそのみ言葉、御心に教えられ、養われています。そのように霊的な出来事が私達に起きているのはなぜでしょうか。それはイエス様が十字架に掛かって死んで、私達の罪を取り除いて下さったからです。教会に来る前にはそんな事は知りませんでした。キリスト教の神様について聞いたことはあっても、自分とは何の関係もないと思っていました。神様と自分との関係が断切していたからです。それが「罪」です。近所の人々、家族や友人知人に神様のことを話しても自分に関係ないと素っ気ない態度を取られてしまいます。あなたが信じているのは勝手だが、私を誘わないでくれと言われてしまいます。人と神様の間には罪という大きな壁があるからです。

 イエス様が復活した日、その知らせを聞いても、弟子達はユダヤ人を恐れ、家の戸を閉めて閉じこもっていました。十字架の贖いによって罪という壁が取り除かれたのが分からなかったからです。復活の主が自分達を愛し、支えていると分からないから、ユダヤ人への恐怖に囚われたままだったのです。その弟子達の所に主が来て、十字架の傷を見せ、自分が復活したと分からせたのです。彼らは喜びました。<百聞は一見にしかず>と言いますが、人は見ないと信じられないのです。その日そこにいなかったトマスも同じでした。20:25の彼の言葉を読むと随分と酷いことを言っているように感じます。他の弟子達も彼と<五十歩百歩>なのです。彼らは八日目にも閉じこもっていたからです。他の弟子達はトマスに「私達は主を見た」と言います。彼らは主の復活を信じました。嬉しくて堪らない響きがその言葉にはありますが、彼らは十字架と復活の主を見たから信じたのです。見たから信じただけでは、十分ではなかったのです。主はトマスに言うことを通して他の弟子達にも変わることが必要だと教えているのです。

 戸が閉じられた部屋にイエス様が入ってきたように、主は人がどんなに心を閉じていても、その人の心に語り掛け、変えて下さる方なのです。主は目に見えませんが、主の方から近付いて働き掛けて下さるのです。

 私達はこの世で生活していると、弱く、迷ったり、自信が持てなかったり、疑ったりする時があります。弟子達もそうでした。でも彼らは五旬節の日に聖霊に満たされ、力強く福音を語り、今に至る教会の働きを始めました。彼らは聖霊に満たされ、人々を見ずに信じる者へと導きました。

 主は復活しましたが、トマスには信じられませんでした。他の弟子達から主と会ったと聞いても、十字架に掛かって死んだ主が復活したとは信じられなかったのです。人は自分で見聞きし、触ってみないと信じられないのです。彼の20:25の言葉は酷いものです。しかし不安や恐れを感じた時の私達は、トマスと余り変わりません。主の復活と臨在を心から信じていないので、自分が経験している全てを御心として受け入れられないからです。

 主は今、そしてこの世に私達が生きているその場所で共にいます。全てを見聞きし、手を差し伸べています。私達は主のご支配とご計画の中に生かされているのです。私達は神に愛され、私達も神を愛しています。パウロはローマ9:28で「神のご計画に従って召された人々の為には、神が全ての事を働かせて、益として下さることを、私達は知っています。」と言います。自分にどう見え、人がどう思うとも、また、今後どのように変わるかと心配になっても大丈夫なのです。全てを益として下さる主を信じられるのは素晴らしいことです。そう信じると、安心して、自分が何をしたら良いかを考えられます。主が、必ず良い方向に導いて下さると思えるからです。

 主はトマスの所に来ました。彼が、見ないから信じない者から見たから信じる者に変わる為です。主は手を差し伸べ、語り掛けます。彼は見て、十字架に掛かって死んだイエス様が復活して、目の前にいると信じました。

 主は、この教会が、私達自身が信仰的に成長する為に、見ないでも信じる者に変わることを求めています。実は信仰成長の秘訣がそこにあるからです。主の姿と声をトマス達のようには見聞きできなくても、人は主イエスを今生きて働く私の主と信じることができます。見ないでも信じる者になれます。主が弟子達に「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダとサマリヤの全土、及び地の果てにまで、私の証人となります。(使徒1:8)」と言った後、天に昇り彼らの目に見えなくなりました。しかしペンテコステの日、彼らは聖霊に満たされ、見えなくても、主が共にいると信じ、主の証人として力強く福音を宣べ伝えました。トマスに「あなたは私を見たから信じたのか。見ずに信じる者は幸いです」と主が言ったように、彼ら自身が主に祝福される幸いな人になったのです。彼らの証言を聞いて、多くの人々が見ずに信じる者となって救われました。私達も主の御臨在を見ずに信じる信仰に固く立ち、人々が救われ、幸いな人となるよう、主の証人となり福音を伝えましょう。