メッセージ(大谷孝志師)

神が私達に望むこと
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年4月30日
聖書 Tテサロニケ5:1-24 「神が私達に望むこと」 牧師 大谷 孝志

 今日は「讃美と証しの礼拝」です。今日の箇所から教会の交わりに何が必要かを教えられます。信徒はこの世に生きているけれども世の人々とは違うとパウロは言います。人々は、私達が信じる主を信じ、その主を礼拝しなくても平和で、安全と考えています。しかし聖書は、神を拒む者には突如として滅びが襲いかかる(3節)と教えます。信徒は主を信じて救われました。夜や闇の者ではなく、光の子、昼の子供となったからです。エペソ5:8にも「あなたがたは、以前は暗闇でしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい」とあります。しかし、彼がここで言葉を変えて何度も勧めるのは、信徒が世の人々同じように生きてしまい、滅びる危険性があるからです。ですから、聖書を読み、祈り、主との霊的交わりを持つ「デボーション」を日々行うことが大切なのです。私達がそう生きるなら、暗闇の中にいません。突如滅びに襲われることはありません。彼は「他の人々のように眠っていないで、目を覚まして、慎み深くしていよう」「信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みを兜として被って、慎み深くしていよう」と言います。私達はどうすれば神に喜ばれる者となれるかを知っている筈です。ですから、そのように生きなさいと彼は勧めるのです。つまり「神は、私達が御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストによって救いを得るようにお定めになったから」なのです。私達が主と共に生きる為に、主が十字架の死という犠牲を払って下さったのです。私達はその重さを感じつつ生きるべきなのです。パウロは4:1で「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきかを私達から学んだように、また、事実今あなたがたが歩んでいるように、益々そのように歩んでください」と言っています。彼は今もテサロニケの教会の人々が、互いに励まし合い、互いに徳を高め合っているのを知っています。ですから、それを今後も続けなさいと言います。

 私達は今日、互いに証しし合い、主の恵みを伝え合おうとしています。緊張せず、力まず、自分が受けた恵みを皆に伝えましょう。それを主は何より喜ばれます。聞く者も主の助けと導きを知り、喜びを味わい、霊的に豊かになれます。互いが主に生かされているとの喜びを味わうことが大切です。その喜びが、各自の、教会全体の信仰を成長させるからです。

 テサロニケの教会にも様々な見方をされる人々がいたようです。全ての人々からではないにしても、14節から、「気ままな者」「小心な者」「弱い者」と思われている人々がいたと考えられるからです。強い人、できる人は、そのような人について、何でこれくらいの事ができないのかと考えたりすることはないでしょうか。強者の論理で、切り捨てたり、無視したりすることはないでしょうか。そのような事をしたとしたら、その人は弱く愚かな自分が主に切り捨てられずに、できる事をさせる為に生かされているのを忘れているのだと思います。また残念ながら、信徒であっても、悪意を持って関わってくる人がいます。そのような人から悪意に満ちた言動をされると辛いものがあります。御心がどこにあるのか分からなくなってくるからです。それは悪魔が仕掛けてくる巧妙な罠であると気付くことが必要です。悪魔はそのような人を用いて神から目を逸らさせ、人にのみ目を向けさせようとしているのです。そんな時、悪をもって悪に報いたくなる誘惑に駆られることがあります。何か事情が有ったのだろうと斟酌できれば良いのですが、自分を騙し、潰そうとする人々を赦すのはとても困難です。しかし、パウロは単に赦すだけでなく、いつも善を行えと言うのです。この世的に考えれば全く不可能です。しかし信仰的に言うなら、絶対不可能な事ではないと気付きましょう。彼がそう言うのは、主を信じればできるからです、だから「しなさい」と命じます。どうすれば可能なのでしょうか。

 パウロは「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい」と言います。その生き方を可能にするのは、神への絶対的信頼以外にはありません。神が、全ての事を良い方向に導き、実りを与えると信じるならばできます。自分の目にはどう見え、自分がどう理解しようとも、現実を受け入れ、忍耐し、どんな相手にも善を行えるからです。どんな悲惨な状況をも御心と信じて喜び、自分や愛する者が、例え傷付き倒れたとしても感謝できます。そのような信徒でいることを、そのような信徒になることを神が望んでいるからです、と彼は言うのです。

 この世に生きていると、また、教会の中でも、自分の思い通り、願った通りにならないことは数多く有るのが現実です。神は全てをご存知の上で、御心のままに全てを行っています。自分の思いと御心が違うだけなのです。しかし、こんな事を神はなぜ許しているのかと考えてしまう時があります。こんな事を許す神に呟いてしまうと悪魔は喜びます。パウロは御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけませんと言います。教会が「地の塩・世の光」の働きをする為には、何が善い事で神に喜ばれるかを見抜くことが必要だからです。私達は神に愛されています。悪魔に負けないのです。私達を教会へと招いた神は真実な方です。私達の霊とたましいとからだを完全に守って下さる方です。私達がこれ迄の人生の中で、神の恵みをそれぞれに与えられてきたことを思い、主の恵みを数えましょう。今日の礼拝の中で聞いた主の恵みを心に蓄え、信仰の糧としましょう。