メッセージ(大谷孝志師)

主の業に励み続けよう
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年5月7日
聖書 Tコリント15:50-58 「主の業に励み続けよう」 牧師 大谷 孝志

  私達はなぜここにいるのでしょう。主がこの礼拝に招いたからです。礼拝に出席しようか、別の用事をしようかと迷った人もいるかも知れません、でも、主は私達を今日、ここに招いたのです。主は何故招いたのでしょう。私達に必要な事があると知らせる為です。主の業に励むことが私達にとっても必要であり、私達にもできると知ることが必要だからです。

 このコリント人への手紙は、伝道者パウロが記したものです。彼は若い頃からユダヤ教師となる教育を受け、将来のユダヤ民族の指導者と見られていました。最初の殉教者ステパノが石で打ち殺される時、この処刑が正当なものであることの証人となった人々が、彼の足下に自分達の着物を置きました。それは、彼がユダヤ人議会の中でも特別な地位を与えられていたことを示します。彼は教会の熱心な迫害者でしたが、復活の主イエス様が彼に会い、彼は変えられ、主の御業に励み続ける生涯を送りました。

 彼は「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい」と言います。「ですから」と言うのは、神が「私達の主イエス・キリストによって、私達に勝利を与えて下さった」からです。私達は主の祈りの最後に「我らを試みに会わせず悪より救いだし給え」と祈ります。私達は主イエス様の十字架の死により、罪を赦され、神の子とされ、神様を礼拝し、御言葉に養われ、神に祈ることができます。神様が私達の神様になって下さったからです。その神様が私達の祈りを聞き、叶えて下さっています。私達が信仰生活を振り返ると、様々な時に、主が手を差し伸べ、助けられるという恵みにあずかっていると分かります。そのような主の恵みを知るから、私達は「いつも主の業に励める」のです。 「ですからには」にはもう一つの理由が込められています。私達は、主の十字架によって神の子とされ、永遠の命にあずかっていますが、自分の信仰生活を振り返ると、弱く、間違いを犯し、神様に喜ばれない行いをしてる自分に気付かされます。主の業に励む資格など無いと思ってしまうのです。パウロは救われても、人は血肉の体でこの世に生きていると言います。「血肉の体は神の国を相続できません」と言うように、救われていても、私達は悪の誘惑に弱く、利己的、自己中心的に物事を判断し、相手を見てしまうのです。他人の幸せよりも自分の幸せを優先させてしまう弱さを持っているのです。彼はローマ9:2,3で「私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、呪われるものとなることさえ、願いたいのです」と、自分の同胞の救いを真剣に願っています。

 私達はパウロのように、自分と何らかの関係を持つ人々の救いを真剣に願っているでしょうか。もちろん、彼程とは言えなくても、自分の家族や友人、知人の救いを願っていると思います。しかし自分の弱さを知るので、怖じ気づき、半ば諦めが先に立ってしまっているのではないでしょうか。彼も自分の肉体に与えられた一つの棘に悩まされていました。彼はこれを「私を打つための、サタンの使い」と呼びます。彼はこう言います。「これを私から去らせて下さるようにと、三度も主に願いました。しかし、主は『私の恵みは、あなたに十分である。というのは、私の力は、弱さの内に完全に現れるからである』と言われたのです(Uコリ12:8,9)」と。私達は自分の弱さを恐れることはありません。主は強く、御力を持って私達を覆って下さるからです。私達は今、血肉の体で世に生きています。主が十字架の血により、私達を罪から解放したとは言え、サタンは私達が主の業を行い、世の人の救いの為に働こうとするのを、妨害しようと誘惑を仕掛けてきます。それにより悩み苦しみ、信仰がぐらつく時があります。

 ですから彼は、私達に奥義を告げます。これは彼が神様から特別に知らされた世の終わりに起きる出来事です。私達は血肉の体でこの世に生まれ、生きていますが、世の終わりの時に、御霊に属する体に甦らされます。そして永遠の命を得た者として新しく到来する神の国に生きます。主を信じて救われた者は、この将来を望みつつ生きられます。では、今はどうでしょう。彼は主を信じていても、人は死と罪の支配下にあることを認めています。ですから、彼は多くの手紙を書いて、主に全てを委ね、「常に喜び、絶えず祈り、凡てのこと感謝せよ」と、福音に相応しく生きるよう勧めています。私達も主に助けられるなら、「堅く立って、動かされることなく、いつも主の業に励み」、世の光、地の塩としての働きをすることができます。

 私達が主の業に励み続ける為には、先に言いましたように、主の救いを知らない人々のことを自分のことのように考えましょう。パウロは「牢に入れられたことも多く、鞭打たれたことは数えきれず、死に直面したことも屡々でした(Uコリ11:23)」。その中で主の業を行い続けられたのは、彼らのことを思う時、彼の心が激しく痛んだからです(同29)。他人事と思っていたら、内外からの障碍に負け、主の業に励みきれなくなってしまいます。

 いつも主の業に励む為には、更に重要な事があります。私達が主の恵みを数えることです。今に至る迄には、様々な労苦があったと思います。しかし主はその時々必要な助け手を与え、恵みを経験させて下さってきたと思います。主は生きておられる私達の主であり、全てを御手により導き、実りを与え、完成の希望を与えて下さる方であることを知るからこそ、信仰生活を続けて来られたのです。主はこれからも私達一人一人を助けて下さいます。一人でも多くの人々の救いを願い、主の業に励み続けましょう。