メッセージ(大谷孝志師)

信仰を受け継ぐ喜び
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年5月14日
聖書 Uテモテ1:5-10 「信仰を受け継ぐ喜び」 牧師 大谷 孝志

 この手紙は使徒パウロが「愛する子テモテ」に書いた手紙です。彼のテモテへの手紙は二つが新約聖書に入っています。聖書の中の「〜人への手紙」は、〜にある教会の信徒達への手紙です。「〜への手紙」は、〜個人への手紙です。しかし単なる個人ではなく、テモテもテトスもパウロ共に主の業に励んだ伝道者、牧者です。彼は二人を「信仰による真実な我が子」と呼んでいます。信仰について私達が知るべき大切な事が記されているので、信仰と生活の大切な基準を示すものとして正典とされています。

 テモテは使徒16:1-3によると、信者であるユダヤ女性の子で、父はギリシア人でした。パウロが彼と会った時は既に信徒であり、ルステラとイコニオムの信徒の間で評判の良い人でした。パウロは彼が信徒になったのは、彼の祖母ロイスと母ユニケの内に宿った信仰が、彼の内にも宿ったからだと言います。母と祖母の信仰をテモテが受け継ぎ、良き信徒として主に仕えていたのです。彼と会ったパウロは、自分の伝道旅行に同行させました。この手紙を受けた時、テモテはエペソ教会の牧師として働いていたと考えられています。母の信仰を受け継ぎ、キリスト教信仰に溢れた家庭の中で、心として成長していったテモテを通して御言葉に聞くことが、今日の「母の日礼拝」に相応しいと示され、この箇所を通してお話を致します。

 テモテは牧師として働く中で、涙を流すことがあり、パウロはそれを覚えていました。生きていると涙を流すことは誰にでもあります。そんな時、自分が尊敬したり、信頼している人から「あなたの悲しみ、苦しみを私は覚えているよ」と言われると、心が温かくなり、とても嬉しくなるのではないでしょうか。そのように言い、言われる関係が信徒同士の間にはあるのです。私達の中にもそのような経験した方が多いと思います。主イエス様が私達を愛したように、互いに愛し合い、相手を自分自身のように愛することができるからです。私達の信仰の素晴らしさがここにあります。

 パウロは彼の信仰を「純粋な信仰」と言います。主の愛と人々への接し方を思わせる信徒として、彼が生きていたからでしょう。ロイスとユニケが家族の中で良い証を彼にしていたからだと思います。私達も家族にそのような証が出来ます。そうすることで。私達それぞれの家庭が恵みと憐れみと平安に満ちた家庭になれます。その為に自分自身の信仰生活をこの家族の信仰を通して振り返り、信仰の継承について一緒に学びましょう。

 テモテの純粋な信仰は、「最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケの内に宿ったものです」とパウロは言います。「宿る」と訳されている言葉は「内在」を意味します。神の霊が人に宿ると、霊はその人を完全に所有し、その全生活を新しく整え、神様へと方向付けます。それにより、その人は神の神殿、神の宮になります。彼がコリント人への手紙で「あなたがたは神の神殿であり(T3:14)」、「私達は生ける神の宮なのです(U6:16)」と言う通りです。1:14でも私達の内に宿る聖霊によって」と言っています。

 今日の箇所の「信仰が宿る」も同じ事実を言い現しています。パウロは使徒16:31で「主イエスを信じなさい。そうすれば。あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。イエス様を信じると何故救われるのでしょうか。信仰がその人の内に宿ると、その人を所有し、その全生活を新しく整え、神様へと方向付けるからです。その人が変えられ、心がしっかりと神様に向き、神様に喜ばれる者へと整えられます。ですからその人は救われるのです。彼の内に信仰が宿ったことによって、彼が神の宮となり、神様を第一とする者へと変えられました。私達がイエス様を信じた時、信仰が私達の内にも宿りました。それにより私達も「神の神殿」「聖霊の宮」となっています。その事実が私達の内に起きていることを知りましょう。

 テモテが祖母と母から受け継いだ信仰を「純粋な信仰」とパウロは言います。「純粋な」は「偽善的」の否定形です。私達は人にどう思われているかに囚われる弱さを持っています。人にどう思われるかを神様に喜ばれるかどうかより優先すると、主がイザヤ書を引用して「この民は、口先では私を敬うが、その心は、私から遠く離れている」と言う「偽善者」になってしまいます。「純粋な信仰」は心から神様を敬い、神様に喜ばれることを大切にする信仰と言えます。しかしパウロは、その信仰の持ち主である彼に注意します。彼は現役の牧師でしたが、霊的に沈み込んでいたからです。彼は師であるパウロが苦しみを受け、犯罪者のように繋がれている理由が分からず、主を証しすることに躊躇していたのだと思います。ですから、パウロは「神が私達に与えて下さったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊です」と彼に言います。自分の内に宿っている霊がどんな霊であるか忘れてしまっていたのでしょう。私達も自分と一緒にいるイエス様がどんな方であるかを忘れてしまっている時があります。私達の内に御霊が、信仰が宿っていることをいつも心に刻み、思い起こしていましょう。私達が信仰を受け継げるよう願い祈っていた教会の人々、信徒の家族がいたことも思い起こしましょう。そして、信仰を受け継いで欲しいと思っている人々が私達の周囲にいることを思い起こしましょう。「神は私達を救い、聖なる招きをもって召して下さいましたが、それは私達の働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みによる」とパウロは言います。自分の知恵と力、生きている状況、直面している問題に囚われる必要は有りません。私達がこの教会にいるのはご自身の計画と恵みにより、神様に召されたからです。信仰を受け継ぐ喜びと相手に受け継がれる喜びがこの教会に満ちるという神様の計画の為に、恵みにより召されてここにいます。感謝しましょう。