メッセージ(大谷孝志師)

主に繋がっていよう
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年5月21日
聖書ヨハネ15:1-10 「主に繋がっていよう」 牧師 大谷 孝志

  主イエスは、私達にとって「まことのぶどうの木」です。旧約聖書では神の民イスラエルが度々葡萄の木に例えられています。「私は真のぶどうの木」と主が言うのは、私につながっている人は真の神の民、イスラエルの民であると言っているのです。イエス様の父は私達にとっても天の父である神様です。神様は独り子イエス様を私達にお与えになった程、罪人の私達を愛して下さいました。神様はどんな人をも大切にされる心暖かな方という印象を持つ方も多いと思います。イエス様は、神様は農夫と言います。農夫は、実を結ばない枝は取り除き、実を結ぶ枝はもっと多くの実を結ぶように、手入れをします。農夫にとって実は生活を支えるものだからです。「私の枝」は神様が主に下さった人々、主と共にいる主の弟子となった人々です。主の弟子であっても、実を結ぶ人と実を結ばない人がるのです。

 私達は自分の信仰生活を顧みて、私は実を結んだ枝だったと言えるでしょうか。しかし私達は実を結べない枝だからと、教会の交わりの外に追い出されたでしょうか。「枝のように投げ捨てられ、枯れて、火に投げ込まれ、燃えて」しまったでしょうか。そうではありません。私達は、弱く愚かであっても、主はこのような私を愛し、守り導き、恵みを与え、幸いな者として歩ませて下さっていると感じてきたのではないでしょうか。主の豊かな愛と恵みを感じながら、生きています。主に感謝しましょう。

 何故父の裁きの厳しさを知らせたのでしょうか。主は自分に従っている弟子達に実を結ぶ者となって欲しいからです。主は弟子達が自分の力では実を結べないのを知っています。私達もそうですが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」との御言葉は知っていても、そうしているかと言えば、していない時の方が多いのが事実です。私もいつもいつもイエス様を意識してはいません。無意識的にですが、主を頼らずに生きているのです。主はそのような私達に警告を発しているのです。そのような生き方が悪魔につけいる隙を与えるからです。

 ギリシア語の聖書では2節の「刈り込みをする」と「きよい」は同じ言葉です。教会に来て福音を聞き、福音が信じ受け入れた人は清い人です。御言葉を聞いても自分は少しも変われない。自分は汚れたままだと思うかも知れません。でも、教会に来て礼拝している人は、神様に清いと認められているのです。私達は神様にそう見られていることを忘れてはいけないのです。神様は私達に救われた者、神様の恵みと平安を戴いて生きる者となって欲しいと願っているのです。だから主は御心に従い、世に来て、十字架に掛かって死に、私達を罪と悪の支配から解放して下さったのです。

 主は今日の箇所の前半で、「枝だけでは実を結べません」。「私に留まっていなければ、実を結べません」。「私を離れては、あなたがたは何もすることができません」「投げ捨てられて、枯れます」と否定的言葉を繰り返します。逆に言えば、主はそれ程、私達がご自分に留まり、共に生きる者となることを願っているのです。それが私達にとっても良い事だからです。

 後半は肯定的言葉を繰り返します。しかしそれらの言葉には条件が付いています。主は私達に道を示し、その道を歩む結果を示したのです。主はこうすれば、こんな素晴らしい事が有ると教えますが、その道を選択し、歩むかどうかは私達の自由です。そしてその結果は私達の責任になります。その弱さの故に、私達が主に留まれない可能性を主は知っているのです。しかし、主は決して私達を突き放しません。主にとって私達は、愛すべき大切な一人一人だからです。ですから主は私達が主に留まることによって受ける恵みを繰り返し、教えます。確かに私達は弱いのです。でも私達は主に留まることができるし、多くの実を結び、主の弟子になることができるし、主の愛に留まることもできます。主が十字架に掛かって死んで、私達を神様の支配の中に生きられるようにしているからです。教会に来て、その事実を知らされ、主イエス様を信じて救われても、聖霊様に助けられて日々、感謝して生活していても、その事実を忘れてしまうから、「私の愛の中に留まりなさい」と教えます。主の十字架の愛に心震える思いになることを主は求めています。忘れられない程の感動が心に刻まれるなら、私達は主の愛に留まれます。主に背を向けることは決してできなくなります。

 主は何故、「もし、あなたがたが私の戒めを守るなら」と言うのでしょう。私達は、どう走るかは自分で決められる自転車や自動車と同じです。思いがけない事故を起こすことがあります。レールの上を走る列車なら、決められた目標にだけ向かって進みます。主が私達その上を進めばよいように「主の戒め」というレールを敷いています。主の戒めを守るなら、私達は主の恵みと平安を戴き、この世の中で安心して生きられます。そこ迄主がしていても、人は自分の計画、したい事に執着して、脱線します。自分の思いだけで生きようとせず、神様は何をこの教会にしようとしているかを考えましょう。神様は私達を「地の塩・世の光」として、主の証人として用い、この地を神の国にしようとしています。まだ救われていないこの地域の人々、私達の家族が福音を受け入れ、主イエス様を信じ、救われ、永遠の命を得る者となることを神様は望んでいるのです。私達が主の知恵を力に溢れた「地の塩・世の光」となり、主の愛を実践しましょう。私達がそうなる為に、私に留まりなさいと命じるのです。主に留まりましょう。主は私達に必要なものを与え、教会と私達の信仰を成長させてくれます。