メッセージ(大谷孝志師)

イエス様は生きています
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年5月28日
聖書 使徒1:1-14 「イエス様は生きています」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは十字架に掛かって死にましたが、三日目に復活し、その後「四十日間に渡って使徒達に現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒達に示し」たと聖書に書かれています。この御言葉は私達にとって大切な事を教えています。使徒達も、主が四十日間自分達に現れて、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを示さなければ信じられなかったのです。彼らは自分達の神が全知全能であると信じていた筈です。そして主が死ぬ前に、「私は殺されるが、三日の後に復活する」と言ったのも聞いていました。しかし実際に、死んだ主が復活したと聞いても事実と認められなかったです。実際に主に会っても、目の前にいるのが復活した主だとは信じられなかったのです。

 私達は今、主イエスを礼拝しています。ここに主イエスがいるからです。主がこの礼拝に私達を招いたからです。主はこの教会に連なる全ての人々をこの礼拝に招いています。しかし他の用事の為に、主の招きに応えられなかった方もいます。主は全ての人の為に十字架に掛かって死に、復活して、全ての人を招いています。近所の方々、私達の家族や友人達もここで礼拝があると知っています。主は招いていても来ないのは、無視しているからではありません。私達が信じている主の存在が分からないからです。

 私は母に教会に行ってみたらと言われましたが、行きませんでした。教会が、家の近くに教会堂を建てる為に土地を購入しました。そこにサツマイモや落花生を植え、それを収穫する会をするので言ってみたらと言われ、それなら行こうかと思い、初めて教会の集まりに行きました。楽しそうだったので、礼拝に出てみようかと思い、礼拝に出ました。嫌いではなかったのですが、毎週は行きませんでした。主イエスを信じる信じないの問題ではなく、自分とは関係無い所としか思えなかったからです。でも、主は諦めずに、母や教会の人々を用いて招き続けていました。そんな事は私には到底分かりませんでした。でも、教会の人に惹かれるものを感じたので、月に1、2度行きました。当時は、皆が生き生きとして喜んで教会に来ていました。教会に世の中の集まりとは違う何か惹き付けるものが有るのは大切なことのです。そしてクリスマス燭火礼拝、水曜夜の祈祷会に誘われて出席して感動し、教会に真面目に通い始めました。諦めずに誘うことが、教会と世の両方の人々にとって大切だし、必要なのです。でもキリスト者になりませんでした。教会の人々から勧められても、イエスが十字架に掛かって死んだが復活して今共にいるとはとても、信じられなかったからです。

 主イエスが復活後、40日間彼らに現れ、神の国のことを語ったのは、彼らが信じ、主の業を行う者達になるには、それだけの準備と教育の期間が必要だったからです。主は私にも約半年、人々を通して神の国について語り掛け続けました。キリスト者になるには準備、教育期間が必要なのです。

 主は数多くの確かな証拠をもってご自分が生きていることを使徒達に示しました。主は私にご自分が生きている証拠を教会の人々の生き方、言動を通して示していました。しかし何となくは感じましたが、主イエスが生きて私と共にいるとは分かりませんでした。主イエスが十字架に掛かって死に、全ての人の罪を取り除いたのですが、神と私の間には罪という壁がまだ有って、イエスの事も神の事も分からなくしていたのです。イエスの事も神の事も、教会の人々からこういう方だよと聞いて知ってはいました。でも、私の目に覆いが掛かっていて、本当の主イエスの事も神の事も知ることができなかったのです。私は救われたいとは思いました。でも、その時が来るまで、使徒達のように、待ち続けなければならなかったのです。

 使徒達が、復活した主イエスに直接会い、話しを聞いても「神の国」の本当の意味を理解できなかったことが、6,7節から分かります。彼らにはまだ必要な事があったのです。8節に「聖霊があなたがたの上に臨まれる時、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、及び、地の果てにまで、私の証人となります」とあります。彼らが神の国のことを、御心を正しく理解し、人々に伝える為には、聖霊の助けが必要だったのです。しかし、使徒達が主の証人として、大胆に福音を伝える者となる為だけに、聖霊に満たされることが必要だったのではありません。彼らが聖霊に満たされて語ったからこそ、聞く人々の心に、主の御心が自分達が本当に知らなければならない真理として届いたのです。そしてペテロの説教を聞いた人々は、心を刺され、自分達の罪を悔い改め、主の御名によってバプテスマを受け、救われたのです。福音が正しく語られ、聞かれる為には聖霊の助けと導きが必要なのです。人々はイエスの十字架の死を見聞きして知っていました。復活の噂も聞いていたと思います。でも、それが自分達にどんなに重大な意味を持つかが分からなかったのです。

 人は、ある日突然、主イエスを信じられるようになります。私もある日、聖霊の助けにより、主の言葉が心に響きました。喜び勇んで牧師の所に行き、受浸したいとお願いし、信仰告白をして受浸し、救われました。

 礼拝に誘い続けましょう。誘わなければ相手に救われる機会は来ません。相手に必要だと思い、諦めずに誘い続けましょう。聖霊が必ず助けます。私達が救われることを願う人を誘い続け、待ち続けさえすれば、その人が礼拝に来て救われる時が必ず来ます。主は生きて働いているのですから。