メッセージ(大谷孝志師)

私にあるものを上げる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年6月11日
聖書 使徒3:1-10 「私にあるものを上げる」 牧師 大谷 孝志

 ペテロは「私にあるものを上げよう」と言い、生まれつき足のきかない男の人生を大きく変えました。今朝の箇所は、私達も今の自分を変えたい、今の状況から抜け出したいと求めて来る人に「私にあるものを上げよう」と言えるのだと教えています。でも私達は、自分の生活、信仰を顧みると、そのようなものはないと思ってしまいます。ペテロとヨハネも聖霊に満たされる前はそう思っていました。彼らもユダヤ教徒であり、神を信じていました。全ては神の御心によるのであり、肉体的精神的に障碍や不自由さがあるのは、本人や家族などの罪の結果で、自分達にはどうしようもないと考えていたからです。しかし聖霊に満たされ、神は全ての人を愛し、見守っていると知りました。イエスは主、キリスト、救い主、全ての造られたものの支配者と自分が信じ、行動するなら、神はその信仰により、自分達の求めに応える方と知りました。その信仰こそが「私にあるもの」です。私達も聖霊に満たされ、主を信じています。私達も彼らと同じ信仰を持っています。私達もイエスは主、キリスト、万能の主と信じているからです。

 生まれつき足のきかないこの人は、エルサレム神殿に入る人々から施しを貰う為に「美しの門」と言う所に置いて貰っていました。施される金で生活していたからです。ペテロとヨハネが神殿に来たのは午後三時の祈りの時間でした。彼らは、自分達は真の神を信じ仕えているユダヤ教徒であり、神がイエスを主、キリストとして立てたとことを他のユダヤ教徒は知らないだけだと考えていました。ですから彼らは、他のユダヤ教徒と同じように、ユダヤ教で決められた時間に神殿で祈ることを大切にしていたのです。

 生まれつき足のきかない男は、二人が宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。すると、彼らはその男を見詰めて「私達を見なさい」と言います。彼は何か貰えると思って二人に目を注ぎます。するとペトロが「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足と踝が強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出したのです。彼らがこう言ったのは、施す金を持ち合わせていなかったのではないと私は気付かされました。二人はこの人に真に必要なものは何かを知っていたのです。金銀は当面の彼の生活を保証し、安心させるでしょう。しかし人は金銀があれば幸せなのではありません。この人を含め、全ての人に必要なのは、神が自分を愛し、必要なものを必要な時に与える方と知り、その神を褒め称えて生きることです。生まれつき足が不自由で施しを受けなければならないのは辛いことだったと思います。神はその辛さ、苦しさを用いて、彼に真の幸せを与え、周囲の人々にご自身の存在と力と愛を示したのです。私達はその神を信じ、礼拝しています。

 神は私達の想像を遙かに超える方なのです。御心のままに、全てを自由に用いて、人にとって必要な事をする方です。神は私達を愛しています。勿論、分からなくて嫌だと思う時、艱難辛苦を味わわされる時があります。しかし全ては御心であり、神が目的と理由をもってしている事なのです。

 今日の箇所もその事を私達に教えています。この男はユダヤ教徒として神を信じていたと思います。しかし真の神を知りませんでした。神が自分を愛していることも、新しい人生を用意していることも知りませんでした。その人の所に、神はペテロとヨハネを遣わしたのです。この世の富を、幸せを求めた彼に、神は直ぐ無くなるような、崩れるようなものではなく、いつまでも変わることのない、確かなものを与える為です。私達も神の恵みと平安といういつまでも変わることのない確かなものを世の人に与えられます。それを私達は持っています。Uコリント4:7でパウロは「私達はこの宝を、土の器の中に入れているのです」と言います。私達は弱く愚かで、直ぐにぐらつくような信仰の持ち主です。パウロもペテロも私達と同じような弱さを持ち、物わかりの悪い所が有ったことが聖書を読むと分かります。でも彼らは素晴らしい働きをしました。それは彼らが、主イエス・キリストの名によって生き、イエスを主、キリストと信じて生きていたからです。

 ペテロは「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言います。彼はこの人に「イエス・キリストは自分を歩かせることが出来る救い主と信じて、歩きなさい」と言ったのです。男はイエスをそのような方と信じました。神はそう信じた彼の足と踝を強くし、歩き出させたのです。ペテロ達は、彼が主を信じるなら、主は彼を歩かせられると信じていました。そう信じていたから、彼に命じたのです。

 私達も内に同じ信仰を持っています。世の人は様々なものを求めています。それが有ればもっと幸せになれると考えるからです。私達もペテロ達と同じように、世の人を変える力を持っているのです。私達は自分自身を見ると到底そんなものはないと思ってしまいます。しかし、私達は「信じる者には、どんなことでもできる」と言う主イエスを信じているのです。

 ペテロは「私にあるものを上げよう」と言い、男の人生を変え、その彼を見た人々を驚かせました。もしも、私達の周囲にいる人が助けを必要として接触して来たら、全ての人を愛する主が、私達を通してその人を救おうとしていると考えて下さい。私達自身はその人を助ける力も、必要に応えるものも持っていません。私達は主がその人の求めに応えられる方と信じればよいのです。パウロのように「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。主があなたを助け、求めに応えて下さいます」と話し掛けましょう。私達の信仰が、その人に自分が変わる切っ掛けを与えるのです。主がそのような方と信じる信仰を私達が現すなら、主は私達を用いて御業を行い、ご自身の存在と力と愛を示して下さいます。