メッセージ(大谷孝志師)

インマヌエルの証人
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2017年7月2日
聖書 出エジプト33:7-11 「インマヌエルの証人」 牧師 大谷 孝志

 私達は神と顔と顔を合わせて話したくても話せませんが、モーセは友と語るように神と話しています。私が高校一年のクリスマスの後、毎週礼拝や祈祷会に行くようになりました。皆がイエス様を信じているので信じたいと思いましたが、なかなか信じられませんでした。そこで、頭の中にイエス様の像を描き、そのイエス様が語り掛けてきたら信じられると思い、語り掛けて下さいと祈り続けました。でも、その像はぴくりともしませんでした。しかし、その数か月後、「私があなたの友です。だから安心しなさい。」と語り掛ける声を聞きました。思い込みといわれるかも知れませんが、私はその声を聞いてすぐに牧師の所に行き、受浸の決意を伝えました。その時もそうでしたが、その後も、神様と語り合ったという経験はありません。しかし、モーセは語り合ったのです。

 私達はイエス様を信じています。ヨハネによる福音書には、主イエスは神の言・神であると記されています。イエス様は御旨を示しただけでなく、神様を現したのです。同じヨハネ福音書に、弟子達は主に父なる神の栄光を見たとあります。その時が、復活後、山上の変貌の時か、家に閉じこもっていた時か、昇天の時かは明記されていませんが、主と顔と顔を合わせて語り合った弟子達は、後に、神を見ていた、つまり、インマヌエルの出来事を経験していたと知ったのです。

 私達も福音書を通して人としてこの世に生まれ、豊かな感情を備えたイエス様を知っています。主であるとは神であること。主を信じるとは神を信じること。主は神の言。全ては主によって出来た。今その主を、神様を礼拝しているのです。家や職場でその主を信じ、主と共に生きているのです。しかし、今は顔と顔とを合わせて主と語れません。だから、不安になることがあります。モーセがシナイ山に上った後、なかなか帰って来ないことで、イスラエルの民は不安になりました。神様が見えない、神様が共におられるしるしとしてのモーセが見えなかったからです。そして、金の雄牛の像を造り、その前にひれ伏し、拝みました。目に見える神が欲しかったのです。私達も主が見えない、語り掛け、教えてくれないので、主以外のものを頼り、不安を解消しようとしていないでしょうか。

 私達は、聖書を読み、祈り、礼拝する中でインマヌエルを経験しているのです。モーセは宿営外に天幕を張り、臨在の幕屋を設置しました。それまでも彼と主は語り合っていましたが、人々に、自分達が主と共いる事、主がモーセに直接語ることを見せる事が必要だったからです。彼がそこに入ると、雲の柱が降りてきて、主が彼と語られました。民は主が共にいると知り、各自の天幕の前で主を礼拝したのです。この礼拝堂は地上に立てられた一軒家です。しかしここは特別な場所なのです。皆さんの生活の場の外に建てられた臨在の幕屋です。教会の人々は、この世の生活の中からここに来て礼拝し、主が私と、私達と共にいると知ります。

 さて、コリント人への手紙でパウロは私達は神殿と言います。主は霊であり、見えませんが、聖書を読み、祈り、礼拝するその場は、私達の心に臨在の主が語り掛けて下さる臨在の幕屋なのです。私達は神の神殿であり、心に響く御言葉こそが、主の臨在のしるしなのです。礼拝堂で、家で、職場で主を礼拝している私達は神の神殿です。インマヌエルの出来事を経験しているその私達を通して、世の人々が主の臨在を知るのです。私達は生ける神様が地上に臨在する神の幕屋であることを覚えつつ、今週も主と共に歩み続けましょう。