メッセージ(大谷孝志師)

人生はやり直せます
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年7月9日
聖書 マルコ1:1-15 「人生はやり直せます」 牧師 大谷 孝志

 毎月、第二週にマルコによる福音書を学んでいきます。

 マルコは冒頭に「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」と記します。「福音」の「福」の訓読みは「さいわい」です。「音」は「知らせ」「便り」を意味する言葉です。福音とは「人に幸いをもたらす便り、知らせ」です。今日の箇所には「イエス・キリストの福音」と「神の福音」の二つの福音がありますが、同じものです。マルコは「イエス・キリストによって成し遂げられた全ての人に幸いをもたらす良い知らせ」と「神の深い愛によって全ての人に与えられる幸いについての良い知らせ」という福音が持つ二つの面を表しているのです。この福音についてマルコによって書かれた書物がマルコによる福音書です。この福音書を毎月一回学んでいきます。

 マルコは旧約聖書を引用してイエス・キリストが主であると最初に知らせます。「預言者イザヤの書にこう書いてある」とありますが、この預言は出エジプト記、イザヤ書、マラキ書の言葉で構成されています。マルコは元の言葉を変更し、これらはイエスについて預言している教えます。彼の思い付きではなく、聖霊が導き、書かせたと信じて読むことが大切です。

 「私」は神、「あなた」と「主」はイエスです。聖書に出てくる「主」は非常に重い言葉です。神ご自身を、或いは神ご自身を完全に顕す方を指すからです。イエスが「主」であることは、イエスが完全に神を表す方、御心を教え、行う方であることを意味します。神が、そのイエスがこれから行う事の準備の為に使者として遣わしたのがヨハネだと言います。ヨハネが荒野に現れて、罪が赦される為の悔い改めのバプテスマを説いたのは、イエスが神の福音を宣べ伝える為の準備だったとマルコは教えています。

 当時のユダヤ人は北のガリラヤ地方と南のユダヤ地方に分かれて住んでいました。その間にサマリヤ地方があり、サマリヤ人は元はユダヤ人と同じイスラエル人でしたが、互いに自分達の信仰を正しいとしたので、この当時は親しくない関係にありました。ガリラヤ人とユダヤ人は共に行き来し、親しい関係でした。でもガリラヤ人は、神殿がある都エルサレムを含むユダヤ地方に住むユダヤ人からは、田舎者と見られていたようです。

 エルサレムを含むユダヤ地方の全住民がヨハネの所に来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川でバプテスマを受けていました。イエスは罪を犯していないのに、罪が赦される為の悔い改めのバプテスマと荒野で悪魔の誘惑を受けたのです。これは、人は自分が正しい、強い人間だと思い易いからです。そこに悪魔は巧みにつけ込み、主を信じなくても自分は大丈夫、生きていけると考えさせ、神とイエスから人を引き離そうとするからです。

 人は弱く、悪魔の誘惑に負け、後悔することが良くあります。亡くなった母がよく「後悔先に立たずだよ。だから気を付けなさい」と言いました。しかし「過ちを改むるに憚る事なかれ」とも言いました。「過ちを犯してしまったら、赦してもらうまで相手に謝ればいいんだが、それはそれで大変なことだから、過ちを犯さないようにしなさい」とよく言われました。

 私は教誨師をしていた時、取り返しのつかない過ちを犯して後悔している人々の個人教誨をし「主イエス様を信じれば、人生をやり直せます」と話しました。元の生活に戻れはしませんが、主を信じるなら自分が生きられる新しい道を見つけ出せます。人は誰でも人生をやり直せるからです。

 イエスが受浸したのは、犯した罪を悔い改めて、罪を赦される為ではありません。受浸した人は、ヨハネが約束した通りに聖霊が降るだけでなく、神がその人の天の父となり、神に喜ばれる者と成れると教える為、荒野で誘惑を受けたのは、人は誘惑に負けずに人生をやり直せると教える為です。

 しかし人は、受浸しても、世に生きる限り悪魔の誘惑を受けます。ですから、受浸した人の受浸後の歩みついて教える為に、御霊はイエスを荒野に追いやり、悪魔の誘惑を受けさせたのです。イエスは神の子でしたが、人としてこの世に来ました。だからこそ、身をもって悪魔の誘惑を受け、その誘惑を退け、人は必要以上に悪魔を恐れることはないと示したのです。

 「四十」は長い期間を表す言葉です。この期間は聖書では、御心を知る為の教育期間、人が清められ、神に相応しくなる為の期間を表しています。そして一番重要な事は、人は誘惑の中で、苦労には終わりがないと思い、絶望しそうになるが、聖書は「四十」という数字を示すことで、その労苦には終わりがあると教えている事です。しかも受浸した人を、神は我が子として愛し、イエスに御使い達が仕えたように、試練の中で助け手を与え、守っていると聖書は教えています。私達はその事に気付くことが大切です。

 マルコは、主イエスが共にいるとの知らせを「福音」と言います。主が私達に幸いな人生を歩めるようにする為に来られたとの知らせだからです。主は「時が満ちた。神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と言いました。主を信じている人も、試練を経験しながら生きています。しかし神は、人を試練の中に放置しません。その人の為に、将来と希望をもって歩める新しい人生を用意しています。しかし神の国には近付いているだけです。人が神の国に生き、新しい人生を歩み、人生をやり直すには、悔い改めて福音を信じることが必要です。「悔い改め」は単に御免、赦してと言うのではなく、方向転換を意味する言葉です。心をしっかりと神に向け、神に全てを委ね、神に誠実に歩みましょう。そうすれば私達は神の国の中にいて、神の祝福を戴き、感謝と喜びに満ちた人生を歩み出せます。