メッセージ(大谷孝志師)

世の現実に諦めず証しする者に
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年7月9日
聖書 詩編22:1-31 「世の現実に諦めず証しする者に」 牧師 大谷 孝志

 主イエス様は十字架にかかって死ぬ前に「私は渇く」と言いました。この言葉は詩編22篇15節の状態の表現です。22篇は「我が神、我が神。どうして私をお見捨てになったのですか」という十字架上の言葉で始まり、「私を見る者は皆、私を嘲ります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります」「彼らは私の着物を分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」等の十字架上の主を預言していると思われる言葉が記されています。「私」は、自分の事を「虫けら」「人間ではない」「人のそしり」「民のさげすみ」と呼び、とても人とは思えない人間の屑だと言います。更に「神は私を死の塵の上に置く」とも言います。彼は神に打ち捨てられ、悲惨な状況に置かれています。しかし、彼は決して絶望していません。そうできるのは、神はいくら自分が呼び求めてもすぐには答えないが、自分の先祖が神により頼んで救われ、裏切られたことはないという歴史を彼は知っているからです。

 彼は神に打ち捨てられ、神が遠く離れているとしか思えない状況にあります。しかし諦めません。神よ遠く離れないで、助け、救い出し、答えてくださいと言い続けます。ここには救われていない人々の現実、神から遠く離れたこの世で、自力で幾らもがいても、罪と悪にまみれて生きるしかない十字架以前の人の姿が描かれています。しかしそれだけではないのです。それと同時にこの詩編は、今この世に生きる全ての人に、主イエス様の十字架の死によって、誰でも主を呼び求めるなら救われる道が開かれているという福音を伝えているのです。ですから今、世の現実の中で悪の力に押し潰されそうになっていても、諦める必要はなのです。助けを求めて、神に叫ぶなら救い出されます。神に依り頼む人を神は決して裏切らないからです。神は真実な方です。主イエス様の十字架の贖いにより、その流された血により、救いの道は既に開かれているからです。それなのに、世の人々は悪の力に支配され、罪にまみれて生きなければならないという「罪の牢獄」に捕らえられたままなのです。それが私達が生きるこの世の現実なのです。

 だからこそ、私達は23節以降に記されている御言葉に心を向ける必要があります。そこには、それ迄の悲惨な状況が一変し、「私」は、救われ、満ち足りた者として集会で感謝の献げ物をしています。悲惨な状況の中で主に助けを叫び求めた自分に起きた奇跡を証しています。この事は、主イエス様の十字架の贖いにより、新しい時が到来したことにより与えられた恵みを示しています。

 「国々の民」は「異邦人達」を意味する言葉です。真の神である主を知らなかった人々が、主を認め、御許に立ち返り、ひれ伏す事が、これから実現する事として記されています。「王権は主のもの」とあるように、主イエス様が全世界の王として、その支配はイスラエルだけでなく、全世界に及び、地の果てまで主の福音が、新しい時の到来が伝えられることを暗示しています。

 主が「私」を救い出し、私の「子孫たち」も主に仕え、主の事を告げ知らせることにより、喜びの知らせを伝えていくと言います。世の悲惨な現実から一人の「私」が救い出されたことが「子孫たち」に継承され、両親や祖父母に起きた事、主が為された義をこれから生まれてくる人々に告げ知らせると「私」は言います。信仰の継承が為されるのです。ですから、世で直面する現実に諦める必要はありません。主は私達を愛していて、祈りを聞き、豊かな恵みを与え、私達の神である事を必ず明らかにしてくれると信じ、今週も希望をもって日々を過ごしましょう。