メッセージ(大谷孝志師)

神の選びは突然に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年7月16日
聖書 使徒の働き9:1-19 「神の選びは突然に」 牧師 大谷 孝志

 「サウロは、なおも主の弟子達に対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司の所に行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば、男でも女でも、見つけ次第、縛り上げてエルサレムに引いてくるためであった」と9:2にあります。ステパノ殺害の時、処刑の正しさを証明する為に証人達が、立会人の足下に自分の着ている物を置きました。この処刑の立会人を務めたのが青年サウロでした。彼は、ステパノを殺す事に賛成し、彼の死後「教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出して、次々に牢に入れた」と8:3に書かれています。ピリピ3:6で彼は、自分の神の民としての熱心さは教会を迫害したことからも分かると言います。彼は<自分は神の独り子で、神と等しい者であると言うイエスは、神を冒涜しているので、そのイエスを神がメシアとして世に遣わしたと信じるキリスト者は抹殺すべき>と考えていました。彼は、ガリラヤ湖の北方にあるシリア州のダマスコにいる主の弟子達をエルサレムに連行し、殺害する為にそこに向かっていました。彼は熱心に神を信じ、神の為にイエスを神の子、救い主と信じる人々を抹殺しようとしています。自分は正しい事をしている信じ、神の為に全力を尽くしていると思っています。

そのサウロがダマスコの近くまで来た時、突然、天からの光が彼を巡り照らしました。彼は地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか」という声を聞きました。主イエスが彼に声を掛けたのです。彼はイエスは十字架に掛かって死んだままだと思っていましたから、イエスだとは分かりません。ただ彼を巡り照らした光にこの世のものではないものを感じ取ったのでしょう。彼は「主よ。あなたはどなたですか」と言います。すると「私は、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、町に入りなさい。そうすれば、あなたのしなければならない事が告げられる筈です」と答えがありました。彼は<自分が神の冒涜者と決め付けていたイエスが復活し、自分はそのイエスを迫害していた>と知らされたのです。彼は真実を知らされ、自分が信じていたもの全てが根底から覆され、崩れ落ちていくのを感じたと思います。懸命に神に喜ばれようとしてきたのに、これ迄の自分の人生が全く見当違いのものだったと知らされたのです。彼は愕然とし、茫然自失したのでしょうか。そうではありませんでした。彼は祈っていました。自分が存在を否定し、主の弟子達を迫害していた自分を、その主が赦し、使命を与えようとしていると知らされたからです。彼が本当にイエスを知ったからです。彼は自分の思い込みの主でなく、真の主を知り、自分を縛り付けているものから解放され、自由になったからです。

 主イエスは、サウロが迫害者であってにもかかわらず、彼を伝道者に選びました。パウロはロマ9:18で「神はご自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにする」と言います。彼が素晴らしい律法学者から教育を受け、ユダヤ社会の指導者として将来を嘱望されていた人だから、迫害に目をつぶって伝道者に選んだのではありません。彼が更に主を信じる人々を殺そうとするのを止めさせる為に伝道者にしたのでもありません。ただ、神が必要としたから彼を選んだのです。さて彼は突然、主に真実を知らされました。主は、彼がしようと思っていた事を中断させ、彼が全く見当違いの事をしていたと明らかにし、彼がしなければならない事があると告げたのです。私達も突然、御心を示されることがあります。サウロのように、主の声が聞こえる場合もありますが、決定権を持つ人の判断で、突如人生が大きく転換させられることがあります。思いも掛けない転換に対応できず、混乱したり挫折したりすることもあります。サウロは主の声は聞いたものの、目は開いていても何も見えませんでした。彼は見えなくなったことで、自分が今まで見えているつもりで、全ての事を判断していたが、主がマタイ12:13で言うように「見てはいるが見えず」だった自分に気付かされたのだと私は思います。また三日の間、飲み食いもしませんでした。主がマタイ4:4で言うように「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」事を実感していたのだと思います。彼は人生を大きく転換させられ、その自分に御心を知らせて欲しいと祈っていたのだと思います。

 神は彼の為に、アナニヤという弟子を用意していました。神は人を用いて御心を知らせます。私達は人の言葉に動揺したり、不信感を募らせたり、時には絶望したりします。中には教会を離れる人もいます。勿論、証や讃美する姿を通して励まされ、主や教会の人への思いを新たにされることもあります。神は御心のままに私達に為すべき事、進むべき道を示し、歩ませるのです。時には教会総会や集会の中で考えがぶつかる時もあります。互いに信仰的に正しい事を考え、しようとしているのに、相手の考えや言動は可笑しい、間違いと決め付けてしまうのです。すると悲しく辛い結果になります。神は迫害者パウロをも神の選びの器として用いたのです。神は、教会に連なるどんな人をも福音を伝える器、教会を成長させる器として用います。パウロは方向は違っていても懸命に神に喜ばれると信じる事をしました。パウロ以上に私達は完全ではありません。正しさを主張し、時に衝突もします。だからこそ聖書を読み、主を礼拝し、真剣に心を主に向けて、自分が正しいと信じる事をすることが大切と今朝は教えられます。神が必要とする時に、そのような私達を神の器に選び、正しい道を示し、為すべき事を教えます。神の時は突然来ます。その時を待てばよいのです。