メッセージ(大谷孝志師)
祈りの素晴らしさ
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年7月16日
聖書 マタイ18:18-20 「祈りの素晴らしさ」 牧師 大谷 孝志

 使徒達は、聖霊が降臨するとの主の約束を、一つになって祈りつつ待っていました。主がエルサレムに留まり、待てと言ったからです。彼らはただ待つのでなく、祈っていました。不安や恐れにさいなまれて、じっとしていられなかったからではありません。また、祈らなければ実現しないと思ったからでもありません。彼らは主が共にいると信じているから祈っていたのです。しかも、ただ祈り続けるだけでなく、讃美の声が上がり、御言葉の朗誦が流れたのだろうと思います。彼らは自分の言葉で、自分の思いを共にいる主に語り掛けていました。そうせずにはいられなかったのです。心の内にあるものをさらけ出して、主に自分の思いを知らせたかったのです。それ程主が近くにいたからです。しかし私達にとって、祈りはある意味で一方通行ではないでしょうか。主を見て、触って、話を聞いていたら祈る必要はないからです。主の姿が見えない、声が聞こえないから人は祈るのです。孤児にはしないと主は言いました。私達もそう信じます。しかし祈っていても満たされないものがあるのが現実です。一人で密室で祈ることが大切だからと祈っていても、こんな思いは自分だけかと考え込んでしまう時もあります。

 主は、二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」と言います。私達が主の名によって集まる時、一緒に祈る時を持ちます。祈りは個人的に主に語り掛けることなのですが、一緒に祈ることによって、一人で祈る以上の経験ができます。相手の心を完全ではないが伺い知ることができ、祈りの課題を伝え合い、祈り祈られる相手がいる喜びを経験することもできるからです。

使徒達は主の約束を待ちつつ祈り続けました。ガリラヤで復活の主に会った時、疑った仲間が何人かいました。しかし今や、約束が実現するかどうかを疑う者はいませんでした。使徒1章を読む限りですが、祈ることに疲れる者がいたとは感じられません。彼らは熱心に祈り続けました。ペトロに「私はあなたの為に、信仰が無くならないように祈った」と言われた主が共にいたからです。そこに集まっていた主の家族の中には、イエスが気が変になっていると言われているからと、イエスを取り押さえに来た者もいました。その人達だけでなく、一人一人は様々な過去を持っていました。しかし彼らは、十字架と復活の主の前に自分を低く、空しくして祈りました。それは主の弟子となった者達は、復活のイエスに神の国について教えられることにより、主がご自身を代価として支払う程に主の眼に値高く尊い者と認め合うことができたからです。祈りは全ての人を平等にします。人は誰でも、主に祈るので、主の前にいる自分を自覚でき、相手も同じだと認められるからです。祈る者は様々な違いを乗り越え、同レベルに立つ者として祈ることができるのです。心が主に向かっているので、最早隔てるものがないからです。ですから、一緒に心を合わせて、真剣に主に向かい、集中して祈れるのです。

 このように祈りは素晴らしいものです。主が祈りに応え、実現という結果を与えるからではありません。時として求めに反する結果を与えられます。しかし自分を低くし、主の眼に値高い者と自分を知る者、自分の思いでなく、御心がなるようにと祈る者は、結果を感謝して受け取れます。祈りは、自分を御心に相応しく生きられるよう変える手段でもあります。祈り続ける中で、私達自身が自分の変化を感じ取れる恵みの業でもあります。だから、祈りは素晴らしいのです。