メッセージ(大谷孝志師)

最高に幸せな人生
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年7月23日
聖書 ヨブ記1:1-12 「最高に幸せな人生」 牧師 大谷 孝志

 毎月第4聖日に旧約聖書のヨブ記を学びます。なぜこの世では、何の理由もなく、悲惨な事が人に起きるのでしょうか。何も悪い事をしていないのに、突然の災害で亡くなる人、癌が見つかり、闘病の末、亡くなる人もいます。そんな人生に意味があるのでしょうか。昔からキリスト教に限らず、多くの人々が疑問を感じる大きな問題です。この世界が不条理にできているからということで解決できる問題ではありません。聖書は神は聖、義、愛なる神と教えています。しかしその神がこのようなことを許しているのでしょうか。ヨブ記は、この問題を正面から取り上げ、全知全能の神に解答を求め、神に与えられた答えを記している書物と言えます。

 ヨブは潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっていました。神はその彼を祝福し、彼は大富豪で、七人の息子と三人の娘を与えられ、膨大な家畜と非常に多くの僕を持ち、幸せな生活を送っていた。彼の人生は最高に幸せな人生だと言えます。しかし、彼は突然全ての財産と子ども達を亡くします。その後、彼自身の肉体も大きく深く傷付けられてしまいます。

 ヨブが所有していた膨大な財産は、当時の人々の考えからすれば、主が彼の神への真摯で敬虔な信仰に対して、神が守りと祝福を与えた結果と人々は考えました。確かにこの世には、善を行えば人は幸いになり、悪を行えば不幸になるとは言えない現実があります。聖書には、神が自分が与えた掟と戒めを守らなかった人々を抹殺する記事が数多くあります。しかし悪人がその豊かさの中に放置されていると嘆く言葉も多くあります。豊かな祝福を与えられていたヨブに下された激しい災いを通して、神と人との関係を明らかにすることが、このヨブ記の大きなテーマだと言えます。

 さて、彼の七人の息子達は、神の豊かな祝福の結果として与えられている自分達の生活を満喫していました。しかし、ヨブは父親として彼らの人生が良い方向に進むようにと精一杯の事をしていました。息子達は「それぞれ自分の日に、その家で宴会を開いた」とあります。祝宴は、一週間を一巡とし、長兄が最初の日、次に次兄と順次行われました。そして、八日目の早朝、ヨブは彼らを呼び寄せ、聖別し、いけにえを捧げました。彼らの年齢は不明ですが、親にとっては子はいつまでも子であり、心配の種は尽きません。若さ故、衝動的、無自覚的に罪を犯したかもしれないし、また心の中で神を呪ったかもしれないと考えたからです。そこに彼の徹底した正しさ、子供達への深い愛と優しさが感じられます。神の豊かな祝福を受けるに相応しい最高に幸せな人生活を過ごしているヨブの生き方が、その財産、家族によって浮き彫りにされ、強調されてこの物語が始まっています。

 6節「神の子らが主の前に立った時、サタンも来てその中にいた」のヘブル語の「子」は広い意味を持つ言葉です。「神の子」と言っても、神が生んだ子ではなく、神に仕える者を意味しています。誤解を招き易いので、新共同訳では「神の使い」と訳しています。聖書で「サタン」は神に敵対行為をする者を告発する霊的存在です。サタンは1,2章に出てきますが、最終章には出て来ません。ヨブを試みましたが、彼が罪を犯さなかったことでその役目が終えているからです。1,2章で主の方からサタンに問題を提起していることはヨブ記を理解する上で注意すべき点です。主はサタンが地を行き巡り様々なものを見てきたのを知り、ヨブに心を留めたかと聞きます。サタンはヨブが主に対して敬虔であることは疑いません。しかし、サタンは彼の敬虔さが彼を祝福する主への感謝であり、応答に過ぎないのではないかと主に答えます。人は意味もないのに主を恐れはしないと考えるからです。彼が敬虔なのは、主が彼のする事に祝福を与え、その財産を外敵から守っているからで、主が全ての持ち物を彼から奪ったら、彼は主を呪う筈と言います。主は彼に溢れる程の財産を与え、家族共々それを享受し、ヨブはそれを受けるに相応しい者であるべく最善を尽くしていました。

 主はなぜ最高の人生を過ごしているヨブの持ち物全てをサタンの手に任せたのでしょうか。主が守り、祝福したから、彼が敬虔なのではないと明らかにする為です。しかしそれだけではありません。主はこの事を通して、私達に主を信じ、主を畏れている理由は何なのかと問い掛けているのです。

 私達の信仰も、自分の為に自分を愛することから出発しています。しかしやがて、自分が自分にとって十分な存在ではないと知ります。そして自分が生きていく為に必要なものを主が与えているから、生きているのだと知ります。主が愛しているから今の自分があるのだと知り、自分が生きる為に主を愛するようになります。この段階の愛は依存や恩返し、期待の愛です。しかし全てを献げた十字架と復活の主の存在を知り、私達の信仰は大きく変わります。主への全幅の信頼へと導かれ、主の要求に応えようとする信仰が生じます。主を主自身の為に愛するようになります。私達の為に御心を行い、私達を支え導く主の働きの為に祈る者に変えられていきます。自分の利害を離れ、純粋な思いで主を見るようになるのです。主自身の為に主を愛する者となった私達は、更に、主の為に自分を愛する信仰者へと変えられていくのです。それがキリスト者の信仰の歩みだと言えます。

 ヨブ記が、義人がなぜ苦しむのかを問うだけの書物であれば、義人ではあり得ないと思う人には、雲の上の話になってしまいます。ヨブ記を信仰の本来的姿を模索し、描く書物として学びながら、自分の信仰を吟味し、全ての人に用意されている「最高に幸せな人生」を歩む者になりましょう。