メッセージ(大谷孝志師)

人の基準でなく神の基準で
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年8月6日
聖書 使徒の働き 10:9〜16 「人の基準でなく神の基準で」 牧師 大谷 孝志

私達は様々な規則に基づいてすべき事、すべきでない事を判断し、予定を立て、実行しながら生活しています。それらの規則は人によって基準が異なります。 国や社会情勢によっても変わります。私の頃は無くなりましたが、敗戦直後の教科書は、多くの部分が黒く塗り潰された物が遣われていたそうです。昨日まで正しかった事が悪い事に変わってしまったのです。

 主イエスはマタイ5:21-で「昔の人々に…と言われたのを聞いています。しかし、私はあなたがたに言います。」と言い、ご自分と共に生きる者は、新しい規則と秩序による世界に生きていると教えています。しかし弟子達が理解できない様子が度々福音書に記されています。人は、昔から慣れ親しんできた規則を新しい規則に置き換えること、それ迄の古い生き方を捨てて新しい生き方を自分の生き方にするのはとても難しいのです。ですから、主はマタイ16:24で「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私についてきなさい」と言いました。

 ペテロは十二弟子の筆頭であり、聖霊降臨後に誕生したエルサレム教会の柱の一人でした。ガラテヤ書によれば、ダマスコ途上で復活の主イエスに会い、主の弟子となったパウロは、このペテロをエルサレム教会に訪ね、教えを受けています。そのようなペテロでしたが、主は彼の考えを変える為に幻を見せて働き掛けたのです。彼が空腹を覚え、食事をしたくなった時に「天が開けて、大きな敷布のような入れ物が、四隅を吊され、地上に降りてきた。その中には地上のあらゆる種類の四つ足の動物や、はうもの、また、空の鳥などがいた。そして、彼に『ペテロ。さあ、屠って食べなさい』と言う声が聞こえた」という幻でした。お腹が空いて何か食べたいと思った彼に、主は彼が食べてはいけないと思っている物を見せて「食べなさい」と言ったのです。「神様酷い」と私はつい思ってしまいました。主は私達を鍛える為により厳しい状況に置く時があります。でもペテロは「主よ。それはできません」と拒否します。イスラム教にはハラル認証という制度があり、そのマークが付いた物ならイスラム教徒は安心して食べられます。同じようにユダヤ教にも食物規定があり、カシェル認証を受けていない物は食べられません。ペテロはユダヤ教徒として、清くない物や汚れた物を一度も食べたことが無かったからです。しかし神は御子イエスを信じる者は誰でも救われる、清い者としたのです。この世界は新しくされ、新しい基準が与えられました。しかし彼は、これ迄守ってきた古い基準を捨て切れませんでした。ですから神は、この幻を見せ、変わるよう迫ったのです。

 しかしペテロは拒否します。その彼に対して「神が清めた物を、清くないと言ってはならない」と神は言いますが、彼は三度神の命令を拒否します。私は大祭司の中庭で彼が三度主を知らないと言ったことを思い出しました。主はルカ22:61によれば振り向いて彼を見詰めただけです。ここでも、神は入れ物を天に引き上げただけです。それを食べさせたとも、彼を責めたとも記されていません。神もイエスも彼をそのまま受け入れています。しかし彼は大祭司の中庭の外に出て激しく泣きました。彼は変えられました。幻を見せられたペテロも変えられました。10:28で「ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法に適わないことです。ところが神は私に、どんな人のことでも、清くないとか、汚れていると言ってはならないことを示して下さいました。」と言ったからです。彼はこの幻を通して神が律法の基準を廃棄し、新しい神の基準を示したと悟ったのです。

 しかしそのペテロが、アンテオケに来た時、既にそこで伝道者として働いていたパウロに非難されています。ペテロが、ヤコブの元からある人々が来る迄は、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らが来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れていったからです。

 彼は、自分がこれ迄神に喜ばれ、受け入れられると信じていた生き方は、間違っているとこの幻を通して神に知らされていました。確かに異邦人は、偶像を神として拝み、それに献げ物をし、真の神が忌み嫌う事をしました。ですから神が世に御子イエスを遣わし、その十字架の死の贖いによって、御子を信じる人を義とし、永遠の命を得る資格を与えました。誰でも主イエスを信じるなら、神はその人を聖なる人として永遠の命を与えるのです。ペテロはその神の御心を知り、異邦人を同じ神の民として受け入れ食事を共にしていました。しかし主の兄弟ヤコブを中心にしたエルサレム教会の人達は、異邦人も割礼を受け、律法を遵守しなければ救われないと信じていました。ですから異邦人と一緒に食事していたペテロに、違うだろう。あなたがそんな事をしていたら、他の信徒達に悪い影響を与えると思わないのかと責めたのです。人は誰も人の基準に束縛されたり、支配されやすい弱さを持っています。彼もその人々の正しさの基準に負けてしまったのです。折角神に「神は偏ったことをなさらず、どこの国の人であっても…この方(主イエス)を信じる者は誰でも、その名によって罪の赦しを受けられる(10:35,43)」と教えられていたのに、駄目だったのです。このように、人は自分が長い間正しいと思っていた事、自分と関係の深い人の言葉や考えに左右される弱さを持ちます。大切なのは、心を静め、御心を示して下さいと神に求めることです。自分は何をすべきか、どう対処すべきかを神に尋ねましょう。求めるなら、神は正しい神の基準を必ず示してくれます。