メッセージ(大谷孝志師)
答えの前に私はいる
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年8月6日
聖書 ヨハネ14:1-14 「答えの前に私はいる」 牧師 大谷 孝志

 人は将来の事を知ることができません。ですから思いがけない出来事が起きると動揺してしまいます。将来について知りたいと願い、占いに頼る人もいます。しかし、もしも死ぬ日と様子を知ったとしたら、人は希望というものを全て失ってしまうのではないでしょうか。どんな辛く苦しい状態にあったとしても、人は分からないからこそ、未来を夢見て現在を頑張れるのです。嬉しいに付け苦しいに付け、将来が分かってしまうと人の人生は無味乾燥なものになってしまいます。

 しかし主は将来を確実な事として語りました。ヨハネ14:37でペトロが主に「あなたの為なら命を捨てます」と言うと、主は「私の為に命を捨てるというのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度私のことを知らないと言う」と答えました。言葉だけなら人は先の事を何とでも言えます。しかし事実は彼の言う通りではなく、主の予言通りになり、彼は三度主を知らないと言いました。主は14:14で「私の名によって何かを願うならば、私が叶えてあげよう」と約束し、15章でも「あなたがたが私に繋がっており、私の言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすれば叶えられる」と言います。とは言え、繋がっていればキリスト者は万能の超人になるのではありません。長年牧師をしいますが、何でもという事例に遇った事はありません。私達は神ではありません。私達が御心に適った事を願う時に叶えられるのです。主の名によって願う願いが御心から外れないものになるようにと御霊に助けられて願うことだけが求められています。孔子は30歳以後十年毎にある境地に達し、70歳にして「七十にして心の欲するままに従いて矩を超えず」の境地に達しました。主が教える「求めれば与えられる」境地は、幼子のような信仰、芥子種一粒の信仰と主が言うように、年に関係無く、主を信じる者なら、誰もが与えられる境地と言えます。

 主は弟子達に「私がどこに行くのか、その道をあなたがたは知っている」と言いますが、弟子達は分からないと答えます。10章にあるように、全ての人は主の羊で、飼い主である主の声を聞き分けられます。15章で主は、キリスト者は全て繋がっていてもいなくても皆主の枝として生きていると教えました。世の人々は、自分が主の羊で、主の声を聞き分けられるのに気付いていません。また、多くのキリスト者は、繋がっていないのに繋がっていると思いこんだり、離れているから自分は主の枝でなくなっていると思いこんだりしています。主が全ての羊がご自分の元に来るよう探し回り、私に繋がっていなさいと呼び掛けているのに、気付かないのです。「どうしたら主がどこに行くか分かるでしょうか」と言う弟子達に、主は「私は道であり、真理であり、命である」と言います。答えの前に君達はいると言うのです。私達も自分の将来がどうなるのか不安になる時があります。しかし、私達が礼拝し、聖書を読み、祈っているならば、私達は答えの前にいるのです。私達の前に道となり、私達に真理を示し、私達を生かす命となって私達を生かす方の前に、私達はいます。その事を自覚して、主よ御心を教え、御旨を示し給えと求めましょう。そうすれば私達に語り掛けている主のみ声を聞き取り、主に繋がる枝として豊かな実を結ぶことができます。全知全能、万能の主が今ここにいるのです。主を信じ、主に繋がるなら、新しい人として生きているのです。どうなるかと不安になるのでなく、将来私達は何を経験し、何が出来るかと期待しましょう。主を信じていれば、願いが叶う生き方が私達にはできるのですから。