メッセージ(大谷孝志師)

主に従う者の道
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年8月13日
聖書 マルコ1:16〜20 「主に従う者の道」 牧師 大谷 孝志

 今日与えられている聖書箇所には、四人の漁師が主イエスの弟子となり、主に従って行った出来事が記されています。私達は主イエスを信じて救われた人をキリスト者と呼びますが、主の弟子が最初にキリスト者と呼ばれるようになったのは聖霊降臨後に誕生したアンテオケ教会でした。(使徒11:26)。ですから、この四人は「最初のキリスト者」と言えます。今朝は、この出来事を通して、私達がキリスト者になるとはどういうことなのか、キリスト者にはどんな生き方が求められているのかを学びたいと思います。

 四人は皆ガリラヤ湖の漁師でした。主がガリラヤ湖畔をそれぞれが漁師としての仕事をしていました。その彼らにイエスは近づき、「私について来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」と言いました。彼らにしてみれば突然の出来事だったでしょう。私達は何が切っ掛けでキリスト者になる決断をしたのでしょうか。人それぞれだろうと思います。彼らは日常生活の中で突然に主との出会いを経験したのです。しかし彼らは、平然とし、そうするのが当然のように主イエスに従っています。主であるから、その威厳に満ちた姿に心から感動し、従ったのでしょうか。私も高一の時、イエスに呼び掛けられました。そしてキリスト者になる決心をしました。その姿や声に感動したからではありません。主が私を知り、私に呼び掛けたことに感動したのです。二ヶ月余り、熱心に集会と礼拝に出席していましたが、なかなか決断できませんでした。主よ、語り掛けて下さいと祈っても、なかなか応えてくれませんでした。主は、私が「主よどうして応えて下さらないのですか」と祈っている時に語り掛けたのではありません。教会の人達に失望し、主イエスに失望し、教会なんかもう行きたくないと、激しく落ち込み、ふてくされていた時に、突然、語り掛けてきたのです。彼らがどのような状態で漁をしていたか、この後弟子となったヤコブとヨハネがどんな思いで網を繕っていたかについて聖書は何も触れていません。また、主がなぜこの漁師達を選んで弟子にしたのかの理由も記しません。聖書はただ、主がそうし、弟子達がそうしたとの事実だけ記しています。

 彼らが「網を捨て置いて」、「父ゼベダイを雇い人達と一緒に舟に残して」主に従い、付いて行ったことが、私達にとって非常に重要で大切な点です。漁師にとって網は必需品で、父と舟は、家を象徴するものです。彼らはそれらを捨てました。しかし1:29-34、2:1-12で、シモンとアンデレの家が主の活動の拠点となっています。四人の後に弟子となったレビも自分の家に主と弟子達、大勢の人々を招いて大宴会をしています(2:14-17)。彼らは全てを捨ててはいませんが、生き方を転換しました。それが重要なのです。

 主は何の目的で彼を弟子にしたのでしょう。3:14に「彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い出す権威を持たせる為であった」とあります。主は、何の目的で私達をキリスト者となるよう招くのでしょう。一つは身近に置く為です。主は私達には見えませんが、共にいます。しかし主が身近にいると感じなければ、主と共にいるとは言えません。どんな時、私達は主を身近に感じるでしょうか。礼拝や集会、交わりの時、そして一人聖書を読み、祈る時です。御言葉を聴き、読む時、御言葉を中心とした交わりの中で、私達は主を身近に感じます。それは、主が私達を教育している時なのです。主にある交わりの中で、私達は教育され、訓練され、主の働き人に相応しいキリスト者に成長していくのです。礼拝やCSの中で奉仕をし、祈祷会の中で恵みの分かち合う中で、私達は必要な事を学び、必要な訓練を受けるという大切な時を経験しています。

 主が彼らを弟子にしたもう一つの目的は、彼らを遣わして福音を宣べ伝えさせる為です。教会に来る人に福音を伝えるのも大切な目的ですが、この世の人々に福音を宣べ伝えることが、主が私達をキリスト者にする一番の目的なのです。私達は外に出て行って福音を世の人々に伝えるのは苦手です。昔は、路傍伝道を積極的にしていた教会が幾つもありました。私の若い頃は創価学会の人々が路上で人を捕まえて集会に誘い込んでいました。私も連れられて行き、集会に出て、宗教論議をした事があります。また、統一教会の人々が駅前で伝道活動をしていたのに出会いました。彼らが路上で祈りをして活動を終えた後、私の方から声を掛け、喫茶店で信仰論議をしました。エホバの証人の人が来たので、会堂の中で話しましょうと言ったら入ってきたので、長時間話し合ったこともありました。全ての話し合いは平行線でした。しかし、彼らが出掛けて行き、自分達の信仰について知らない人々にそれを伝えたいという真剣な思いは感じさせられました。

 私達には「受けるのは良いが、与えるのは苦手」という思いがあります。しかしパウロはエペソ教会の長老達への別れの説教の最後に「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われた御言葉を思い出すべきです」と言いました。受け、頂くのは嬉しい、幸いなことです。しかし、与えるほうが幸いなのだから、福音を伝える幸いな者になりなさいと主は私達に教えます。それが御心に適う事で、教会がこの世に存在し続ける為、私達がキリスト者らしくこの世で生きる為に必要な事だからです。これが主に従う者の道です。主に従うとは、それ迄の世のものに頼る自分ではなく、主に頼る自分になり。生き方を変えることです。主は私達も福音を伝える者として遣わそうとしています。主は私達に何を求めているか、信徒として自分は何をすべきかを考え、決断し、主に従いましょう。