メッセージ(大谷孝志師)
失われた羊の私の為に
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年8月13日
聖書 ヨハネ10:7-16 「失われた羊の私の為に」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは「私は良い羊飼い」と言います。主は私達の良い羊飼いです。詩23に「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の野に伏させ、憩いの水のほとりに伴われます」とあります。この詩編の記者は必要なものを全て与えられ、満足し、感謝しています。人生山有り、谷ありです。飢え渇くこともあったと思います。主が私の羊飼いである時、私達は全てのことを恵みとして受け、日々、満足して生きることができます。パウロもピリピ4:11-13で「私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言います。主が御言葉により、私達が所有するもの、直面する問題の意味を教えるからです。ヨハネ8:32で「真理はあなたがたを自由にします」と主が言う通りです。私達は自分の知恵、世の知恵で判断しようとすると、物事に執着したり、他人と比較したりして、不安や不満の虜になってしまいます。しかし主が「あなたがたが考え悩む必要はない。これはこういう事なのだから」教えてくれるので、物事の真の姿を知り、安心します。主が良い羊飼いとして私達を養って下さるから、私達は幸いなのです。

 主はなぜそのように私達を養ってくれるのでしょう。私達が主のものだからです。主は私達が命を得、またそれを豊かに持つ為に、この世に来て下さいました。私達は主を知らず、この世の知恵によって生きていた時は、様々な物や人に心を奪われていました。それらに執着し、それらを失うことを恐れ、本当に大切なものを見逃していました。しかし教会に来て、福音を聴き、主が良い羊飼いと知り、私達の人生は大きく変わりました。主が御言葉を通して私達を導き、命を与えると知りました。ですから、御言葉を聴く為に、御言葉を与える主、良い羊飼いを礼拝する為に教会に来ます。主は私達を自分の羊として愛し、養って下さいます。

 私達はなぜ主を良い羊飼いと信じたのでしょう。私達もこの世の人生の中で様々な選択肢を持って生きてきました。どの道が自分の人生を豊かにするのかを時には熟慮し、時には瞬時に判断して選び取りました。しかし主を信じる決断した時はそうではなかったと思います。主を信じる道しかなかったのではないでしょうか。計算し、理解して信じたのでは有りません。主イエスを信じることが正しいと信じたからです。主に全てを委ね、主の懐に飛び込んだのです。その時、私達は、自分の羊飼いの声を聞き分けたのです。そして主の羊として、主に従って生きる者となったのです。なぜ、聞き分けられたのでしょうか。私達が主の失われた羊、良い羊飼いの羊だったからです。良い羊飼いである主は、失われた羊である私達の所に来て、私達の名を呼んだからです。主は肉の命に生き、神との関係を絶たれたままの死ぬべき者であった私達が、永遠の命を戴き、死なないものを着る為に、私達という羊が生きる為に命を捨て、十字架に掛かって死んで下さったのです。主が私達を愛し、私達が主の愛を知り、主が私達の良い羊飼いであると知る為に、主は私達の為に死んで下さったのです。

 私達はなぜ、主の声を聞き分け、主を信じて恵みを戴き、幸いな人生を生きているのでしょうか。それは私達が主の羊だからです。失われた羊だったからです。私達の周囲には、自分が主の羊であり、失われた羊であることを知らずに世に生きている人が大勢います。主はその人々の為にも命を捨て、復活し、人々が主の羊であると知り、主の恵みと平安を戴いて生きられるよう、人々の名を呼んで呼び掛けています。主の羊である素晴らしさを人々に証しする私達になりましょう。