メッセージ(大谷孝志師)

全ての人の救いの為に
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年8月20日
聖書 使徒10:41-48 「全ての人の救いの為に」 牧師 大谷 孝志

 使徒の働きには、私達の想像を遙かに超える教会の姿が記されています。その姿は、使徒達の働きによるのではなく、神の働きによるものです。キリスト教人口は、韓国がプロテスタント合わせて27.40%、フィリピンでは同じく93%です。それなのに日本のキリスト教人口は全人口の1%に停滞したままです。今日は、御言葉を通してその理由について学びましょう。

 私達は伝道の大切さを知っています。主イエス様を信じるから与えられる喜びも知っています。教会に来るのはその良さを知っているからです。私達は「聖書に善い事が書いてある、この世で生きていく為に大切な事を教えられる。教会に来て、他の信徒と話しているとこの世の人とは違う暖かいものを感じる」と知っています。でも、良い事ばかりではありません。教会の人より、世の中の友達の方が優しく親切だと思う時もあります。教会の人はずかずかと心に踏み込んで来る気がして嫌だと言った人もいます。でも、色々な事はあっても、イエス様の恵みと祝福を頂ける人生の素晴らしさを知るから礼拝に来ているし、他の人にも来て欲しいと思っています。でも、世間話や相手が興味を持つような話題は話せても、教会の事や自分の信仰については「言うと、引かれたり、距離を置かれたりするのでは」と考えて、話題にするのを躊躇してしまうのが現実ではないでしょうか。

 パウロもアテネで福音を語った時、最初は興味を持って聞いていた人々に「死者の復活の話しを聞くと、ある者達はあざ笑い、他の者達は「この事については、またいつか聞く事にしよう」と言われ、彼は彼らの中から出て行ったと使徒17:32,33に記されています。伝道には昔から困難が伴っています。でも私の若い頃は、路傍伝道をする人々がいました。町に出て行き、外灯の下に立って、証や説教をし、集会案内等のチラシを配って伝道したのです。昔、天理教の人が駅前で天理教の教えを話すのを見ました。今も物見の塔、統一教会、モルモン教の人々は、世の中に出て行き、熱心に自分達の信仰について語り、勧誘しています。でもとても難しいと感じてしまうのが私達です。しかし聖書は、その現実を乗り越えることによって福音が前進し、私達の間にある目に見えない神の国が、霊の眼で見えるようになると教えます。伝道は神の業です。しかし、キリスト者一人一人が伝道することによって人々が変えられ、主イエスを信じる信仰を告白し、罪を赦され、救われて、神の民となり、永遠の命を頂く者と成れるのです。

 既に救われたキリスト者だけが、世の終わりが来た時に、新しく下って来る聖なる都、新しいエルサレム、神の国にゴールするのでなく、家族や友人、心に掛けている人と一緒に、皆でゴールに入りたいと私は思います。

 しかしペテロは、異邦人も自分達のように救われて欲しいと願ってはいませんでした。逆にペテロを始めユダヤ人キリスト者は、異邦人と食事も、仲間になることも、訪問することさえも律法によって禁じられていたので、異邦人のままで救われる筈はないと考えていました。しかし神はユダヤ人を創造したのではありません。神はアダムとエバを創造し、全ての人はその子孫です。神はその中からアブラムを選び、彼の子孫を大いなる神の民とする契約を結びました。そして神はモーセに率いられてエジプトを脱出したユダヤ人と契約を結び、正式に神の民として歩み始めさせました。しかし、彼らの歴史は神への反逆の歴史と言えます。それなのに彼らは、自分達は選ばれた神の民としての誇りを持ち、異邦人は神に滅ぼされる汚れた民として蔑視していました。しかし主はマタイ23:28でユダヤ人は「外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法で一杯」と彼らの現実の姿を鋭く明らかにしました。自分は祈りの人、断食をしている、十分な献げ物をしていると人に外側を誇っても、内側が自己中心、他人の辛苦を見ぬ振りをしたり、陰で貪り取ったり、<それで神に喜ばれるのか>と問われれば、そうではないとしか言えない事をしていました。だから主イエスは全ての人、つまりユダヤ人と異邦人の為に十字架に掛かって死に、その罪を赦し、ご自分を信じる者が神の子とされ、永遠の命が与えられる道を開きました。

 神がユダヤ人である十二使徒、パウロを全ての人を救う為の伝道者として用いたのは、アブラハムと結んだ契約を誠実に守ったからです。神は、ユダヤ人によってユダヤ人も異邦人も救おうとしたのです。しかし彼らは異邦人伝道を無駄、不必要としました。異邦人伝道をするパウロらを迫害し、神の民を自認しながら、自分達への御心を拒絶してしまったのです。

 ここで、ユダヤ人と異邦人の関係を私達と世の人々の関係に当て嵌めてみましょう。私達は主を信じれば、このままで救われると信じています。主は私の為に十字架に掛かって死んで下さったからです。でもその主の愛に甘えて、伝道に消極的になっていないでしょうか。パウロはTコリ9:27で「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわない為です。」と言います。私達が難しさ故に伝道を躊躇する時が多いのは残念ながら事実です。しかし、主は全ての人の罪の為に十字架に掛かって死んだのです。全ての人が救いの対象です。自分の救いは感謝しても、私達が伝道しなければ世の人々は救われず、滅びに向かうだけです。主に愛されていると感謝するなら、その感謝を世の人々への愛で現しましょう。その愛の大きさ豊かさが、私達の神への愛の深さを現します。神を愛しているなら世の人々を愛し、福音を伝えましょう、神はその愛を喜び、必ず助け導いて下さいます。