メッセージ(大谷孝志師)
主は私達の牧者です
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年8月20日
聖書 詩篇23:1-6 「主は私達の牧者です」 牧師 大谷 孝志

 私達は主の羊と先週学びました。主が良い羊飼いだから、私達は何も欠けることなく全ての必要が満たされている筈なのです。それなのに、私達はこの世に生活していて欠けを、必要が満たされないのを感じてしまうのはなぜでしょうか。それは世のレベルで物事を捉えてしまい、神様の側から、神様の目線で物事を捉えようとしないからです。先週引用した詩編23編は「ダビデの賛歌」と表題が付いています。彼は、主が自分を緑の牧場に伏させ、憩いの水の畔に伴われると言います。主は私の魂を生き返らせると感謝しています。彼は様々な諸国、諸民族との戦いを経験しています。またバテ・シェバに横恋慕し、彼女の夫ウリヤを激戦地の真っ正面に出させ、戦死させ、自分の妻とします。その罰として、息子の反乱等により心の内側で激しい闘いを経験します。しかし、その心を激しく痛ませる闘いの中でも、彼は主との交わりに魂の平安を与えられていたと感謝しているのです。この詩編を通して私達は信仰の喜びを改めて感じさせられます。私達は人として生きているので善い事も悪い事もします。善い事の場合は良いのですが、悪い事をした場合、その自分に心が傷付き、全てを投げ出してしまいたくなる時、死んでしまいたいとすら思う時もあります。しかし主は私達の全てを包み込み、悪を悪として罰しますが、正しい道を教え、その道を歩む知恵と力を与え、希望も与えてくれます。私達が信じる主は、私達一人一人を大切にする方です。

 内外両面の様々な激しい戦いや深刻な闘いを経験する私達を、主は魂を生き返らせる緑の牧場、憩いの水の畔道にいて下さいます。それは、日毎の糧を頂く時、聖書を開き一人祈る時、家庭で、会堂で共に主を礼拝する時、社会で接する世の人に主の僕として生きる時だと先週学びました。主はこのような私達を愛し、御言葉を与え、精神的、物質的祝福を与え、これから生きる為の必要な新しい力を与えて下さいます。それは私達が主の羊だからです。羊が自己防衛力を持たず、地理的弁別が近視眼的で、迷いやすい弱い動物で、羊飼いを必要とするからです。私達がその羊のような存在ので、主という良い羊飼いが私達には必要なのです。

 ダビデのように、主との霊的交わりの中で、深い魂の平安を与えられましょう。主は良い羊飼いだから、私を正しい道に導いていると信じましょう。死の陰の谷を歩いていると感じる時も、災いを恐れる必要はありません。そこは主が私に祝福と幸いを与える為の最善の場所であり、場面だからです。主は真実な方です。約束を守ります。私達と共にいて外敵を追い払う鞭をふるい、険しい道もしっかりとした杖を持って支えて下さり、主は御力を持って私達を導いて下さいます。

 主は旅人をもてなすように私を迎え入れて下さいます。世の外敵との戦い、自身の内面的闘いに疲れ果てた時、危機的状況に直面し怖じ惑う私に、主は「私が匿うから、安心して食卓につけ」と言われます。そして現実の生活の中で、物質的にも精神的にも豊かな思いで心を満たして下さいます。この世に生きていても、主が共にいるので私達は孤独ではありません。主は守ると約束したら徹底的に守ります。人は生き、戦い、探し求める中で不安や恐れを体感しますが、どんな場面、場合にも主の恵みと慈しみが追い掛けてくるように私を覆います。世に生きている私は、どんな場所、場面であろうと、常に主の家に今居ると信じましょう。それが主の羊でいるということです。そして生涯そこに留まりましょう。私の居場所は常にあります。平安を求めたいと思えば、主の家は私の眼前にあります。