メッセージ(大谷孝志師)

主は与え、主は取られる
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年8月27日
聖書 ヨブ1:13-22 「主は与え、主は取られる」 牧師 大谷 孝志

 先週水曜にミャンマーのカチン族の青年7名が瀬戸田の石塚先生と共に大矢総主事の運転する車で向島に来ました。16:30から讃美礼拝をし、讃美を通して表された彼らの信仰に、出席した者は豊かな恵みを頂きました。大矢師の力強い説教に大きな励ましと希望を頂くことができ、感謝でした。

 総主事によると、世界で一番キリスト者が増えているのは東アジアの国々だそうです。先週も韓国とフィリピンに触れましたが、カチン族の人口160万人の内キリスト教徒は99%、同盟関係者出身教会の礼拝出席者は4000人だそうです。また一度に6000人ものバプテスマが行われた時の写真を見ました。東京平和教会から分かれたカチン平和教会では、先日教会員の子供達16名がバプテスマを受けたそうです。大矢先生は「日本の教会も東アジア諸国のように大きく変わることが出来る。その秘訣を私は知っていると」と言いました。その秘訣は何かと言うと「家族揃って救われること、教会で一緒に礼拝できるよう願い、家族に伝道すること」だそうです。昔私が牧師をした大阪の池田バプテスト教会は、教会員夫婦が8組、教会員の子と孫が10人いてそれだけで約25名でした。クリスチャン同士で結婚した夫婦、妻が先に救われ、後から夫が救われた夫婦もありました。私の母も60歳を過ぎてから救われ、父は70歳半ばで救われました。牛久での開拓伝道の時は約1時間かけて来る両親を含め家族全員で礼拝を守れ、感謝でした。

 さて、ヨブは自分自身が「潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかる」生活を心掛けていました。彼は、罪を犯し、心の中で神を呪ったかも知れない息子達の為に生け贄を捧げました。皆が神に喜ばれる者となる為です。彼にとって一番大切なのは、神との関係を第一にすることだったからです。ヨブが大切に思っていたそのような子供達を、神は簡単に殺してしまいます。しかしヨブ記の終わりには、彼は息子七人と娘三人を持ったと記されています。子供達の前に、羊、らくだ、牛、雌ロバを奪われましたが、これらについてもそれぞれ倍のものが与えられたと記されています。全ては、「神が与え、神が取り去る」のだと、ヨブ記は私達に教えています。

 私達の教会では、牧師は家族で出席しています、他に二組が夫妻で出席していますが、なかなか家族揃って礼拝するのは難しい現実があります。しかし、家族の救いを願わないキリスト者はいません。皆一緒に天国に行きたいと願っていると思います。だからヨブも子ども達が神に滅ぼされないようにと生け贄を捧げ続けたのです。しかしある日、シェバ人が牛とロバを奪い、若者達を殺し、神の火が天から下り、羊と若者達を焼き尽くし、カルデヤ人がらくだを奪いました。子ども達と全財産を奪われました。

 ヨブはこれらの報告を聞くと、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝しました。上着を裂くは深い悲しみを、頭を剃るは無くなった者達への哀悼を、地にひれ伏しての礼拝は、主への絶対的服従を表します。この後の彼の言葉は、一見、彼が冷静に事態を受け止めているように思えます。でも私達は深く悲しい思いをした時、ここまでしたでしょうか。むしろ悲しみを押し殺して呻くか、激しく泣き叫ぶかではないでしょうか。そこ迄しなければ自分を失いそうになる程の悲しみ、理由が思いつかない彼の苦しみが、この時の彼の行動に表れているのです。彼は、この突然の災いが主が下したものだと知っています。全ての事は神の意志によって起きると知り、それに人は逆らえないと知っていました。だから彼は「主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言えたのです。私達は自分の子供達が殺されても、彼のように主を讃美できるでしょうか。無理だと思います。しかし聖書はヨブのこのような言動を通して、私達に神への正しい姿勢を教えます。聖書からは、ヨブにも子供達にも罪は無く、彼が何の理由もなく神を崇め、神を礼拝していることを悪魔に分からせる為に、財産と子供達をヨブから奪うことを、神がサタンに許したのは明らかです。ヨブが子供達を失ったのは、ただ、神の意志によるものでした。

 私達は、自分の家族への神の意志をどうこう考えても、どうにもなりません。私達の家族が礼拝に出席し、救われれば、教会は盛んになります。そうなると近所の人の教会の見方も変わり、行ってみようかと思う人も出てきます。教会が地の塩、世の光となり、神の栄光が現されます。神がどのような事をしようとも、私達の方で神に喜ばれることをしていればよいのです。私達には真剣に祈ることができるのに気付くことが大切です。

 真剣に祈ることはできます。でも私達は、後で同じ七人の息子と三人の娘を与えたとしても、掛け替えのない命を持った子供達を殺してしまう神に祈り求めているのです。だから聖書は、私達が祈り求める神は、子供すら自由に与え、自由に取り去る方と教えるのです。全ては神のものであり、神がそれを自由にできるのです。その信仰に私達がしっかりと立てと聖書は教えます。子供だけでなく、隣近所の人も、友人知人も他の家族も皆神のものであり、神が私達に与えているのです。その中でも、家族は最も身近にいて自然に話し掛けられる相手です。最も大切に思っている相手です。神は、この人達に福音が語れなくて、誰に語れますかと私達に語り掛けています。神は家族という最も伝道し易い相手を与えているのです。身近なだけに難しいと思わないで下さい。家族は一番一緒にいたい人、一番幸せになって貰いたい人です。その大切な人に福音を伝えましょう。一緒に生かされていることを感謝し、一緒に主を礼拝できるよう祈り求めましょう。