メッセージ(大谷孝志師)
キリストの愛に倣おう
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年8月27日
聖書 ローマ15:1-6 「キリストの愛に倣おう」 牧師 大谷 孝志

 私達の周囲には主を信じていない多くの人がいます。その人々は、自分に弱く、悪い所があると感じることはあっても、だからと言って、強く正しい人として生きたいと思って、教会に行きたい、キリスト教の信仰を持ちたいとは思いません。教会に行けば、キリストを信じればそうなれると知らないからです。それに、自分なりの生き甲斐を持ち、夢も希望をも持ち、今のままでも良いと思うからです。

 しかし私達は主イエスを信じているので、この世の人々にはない強さを持っています。試練にあっても耐えられるし、逃れる道があると信じ(1コリ10:13)ています。ですから四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない(2コリ4:8,9)生き方をすることができます。それに艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣、キリストの愛から私達を引き離せない(ロマ8:35)と知っています。私達も人間ですから弱く、過ちも犯します。しかし、主イエスを信じているので、強さを頂き、自分が聖なる者、神のものとされていると知っているので、安心して日々を過ごせます。

 世の人々を見ると、残念で情けない思いになることがあります。自分の弱さを克服できず、悪を離れようとしないからです。簡単に誘惑に落ち、窃盗、詐欺、傷害、殺人を犯します。自分さえよければ、他人が苦しんでも一向に気にしない。しかもそれを自分の弱さの故と認めず、誤魔化して生きているのに気付かないのです。私達もかつては同じような弱さを持っていました。しかし、この私の為に主が十字架に掛かって死んだ事を知り、罪を認め、悔い改めて主を信じ救われて、本当の強さを頂き、新しい人を着て生きる者とされました。変えられたのです。

 パウロは、主の恵みによって強さを頂いた私達は、世の人達の弱さを担うべきだと言います。この「担う」は背負うことで、私は「十字架を背負ってついて来る者でなければ」(ルカ14:27)、との御言葉を想い起し、主が私の罪の為に十字架を背負われたように、私も未だ主イエスを信じていない人々の弱さを、私に与えられた十字架として背負って、主に従って生きるべきであると教えられました。

 3節の詩編の引用から二つの意味を学びましょう。一つはダマスコ途上のパウロへの御言葉を想い起しましょう。主ご自身が迫害された人々への嘲りを受け、彼らの苦痛、死を主が背負われていることです。そうです。今私達が苦難を味わっているとしたら、その私をも臨在の主が共に負って下さっているのです。

 もう一つは、パウロの神への熱情が彼自身を占領し、行動を規制しているということです。自分では信仰的と思ってもそれが自分が作り上げたものだと、返って神を傷つける時があるからです。だから聖書に教えられ、導かれる事が大切なのです。礼拝の中でこそ私達は忍耐と慰めを学び、希望を持ち続けられる者になれるからです。世の厳しい現実に直面する私達の為に、神は忍耐と慰めの源となって下さり、キリスト・イエスを模範、助け手として与えて下さっているのです。

 礼拝は御言葉を頂くと共に、信仰の友と一つ思いで神を讃美する場です。そこで互いに助け合い、励まし合う仲間がいると確認できます。それがキリスト・イエスに倣う時、主のように考え、行動する時の支えになります。そのような者として世に生きるなら、私達は未だ主イエスを信じていない方々に善い感化を与えられます。自分にはできないと思わないで下さい。主は私達を遣わしているのです。「私を強めて下さる方のおかげで、私には全てが可能です。」(フィリピ4:13) 感謝!