メッセージ(大谷孝志師)

キリスト者と呼ばれた人々
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年9月3日
聖書 使徒11:19-30 「キリスト者と呼ばれた人々」 牧師 大谷 孝志

 主イエスを信じた人はキリスト者・クリスチャンと呼ばれます。自分でも「私はクリスチャンです」と言います。クリスチャンはなぜそう呼ばれるのでしょう。シリアのアンティオキアで、弟子達が初めてキリスト者と呼ばれました。そう呼ばれた人達とは、どういう人達だったのでしょう。

 最初の殉教者ステファノのことから起きた迫害の時、使徒達を中心としたヘブル語を話すユダヤ人達はそのままエルサレム教会に留まれました。それ以外の弟子達は最初はユダヤとサマリヤの地方、つまり、ユダヤ人社会に散って行きました。しかし彼らはその後、フェニキア、キプロス、アンティオキアという異邦人社会に行き、福音を宣べ伝えたのです。でも、弟子達はその地域に住むユダヤ人にしか福音を伝えませんでした。異邦人は失われた神の民ではなく、主イエス・キリストによる救いの意味を理解せず、異邦人は対象ではないと決め付けていたからです。また、言葉が通じ合える相手の方が話し易いし、思いを伝えやすかったからだと思います。

 しかし彼らの中にキプロス島やアフリカの上部、クレタ島迄約400㎞のクレネから幾人かが来ていて、アンティオキアに来て異邦人にも語り掛け、主イエスのことを宣べ伝えたのです。ギリシャ語が通じるとは言え、異教の神々を信じる人々に、主イエスを信じるなら救われ、真の神が永遠の命を与えると伝えても、なかなか信じられるものではなかったと思います。しかし聖書は「主の御手が彼らと共にあったので」と教えます。私達もそうですが、自分の知恵や経験によって福音を伝えても、通じるものではありません。むしろ、距離を置かれてしまいます。しかし彼らは伝え続けました。人々に救われて欲しいと真剣に願ったからだと思います。そして、主は彼らの願いを聞き、人々を主に立ち返らせたのです。「立ち返る」という言葉は、彼らが昔主を信じていた異邦人だったことを示すのではなく、彼らが福音を信じ、悔い改め、異教の神々でなく、真の神である主イエスに心の向きを変えたことを意味します。私達も異教徒に囲まれています。その人達は救いを必要としているのです。私達がその人々に福音を伝える為に遣わされているという自分に与えられた使命に気付き、それを行えば、その私達を聖霊が助け導き、豊かな実りを与えると聖書は教えるのです。

 アンティオキアは、人口百万人で、ローマ、エジプトのアレクサンドリアに次ぐ第三の都市でした。そこで異邦人が大勢救われたとの知らせはエルサレム教会にとって驚きでした。そこでバルナバと呼ばれていたヨセフをアンティオキアに派遣しました。彼は、キプロス生まれのレビ人で、使徒達からはバルナバと渾名で呼ばれる程親しく、信頼されていたからです。

 バルナバはそこに着くと、「神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励まし」ました。大勢の異邦人が主イエスの言葉を聞いて信じ、救われたのを見て、神の恵みが満ちているのを知り、喜びに溢れたのです。しかし彼は「皆が心を堅く保って、常に主にとどまるようにと励まし」ました。彼は救われたばかりの人々の燃えるような信仰に触れたのになぜ、このように励ましたのでしょう。それは人の弱さ、悪魔の強さを知っていたからです。この教会の人々が更に信仰的に成長していく為には彼のこの励ましが必要だったのです。彼らは彼の勧めを素直に受け入れ、彼に教えられ、導かれ、大勢の人が主に導かれました。

 大勢の人が救われ、成長していくアンティオキア教会の姿を見たバルナバは、信頼できる助け手が必要だと気付きました。それで、知人であり、やはり聖霊と信仰に満ちているサウロ(パウロ)を探しにタルソに行き、彼をアンティオキアに連れて来て、二人で更に大勢の人を教えました。そして弟子達は、この教会で初めて、キリスト者と呼ばれるようになりました。

 キリスト者とはどんな意味を持つのでしょう。ギリシア語のχριστιανοίクリスティアノイ)は、ヘロデ派やカイザル派のようにある者を頭として党派を組む者達に、外部の人が付けた渾名です。キリストを頭とし、キリストに忠誠を誓う人々という意味です。私達はキリスト者・クリスチャンと世の人々から呼ばれることの重さをどれだけ感じているでしょうか。自分達の頭、主人はキリストだと世の人が分かる生き方をしているでしょうか。アンティオキア教会の信徒達は、自分達は主人であるキリストの僕であり、頭であるキリストの意志を忠実に実行する者、キリストの為なら死をも惜しまない者として生きていたのです。町の人にそう見えたから、彼らはそう呼ばれたのです。

 町の人々は、主イエスのことを聞かされても、何の事かさっぱり分からなかったと思います。しかし自分達と同じような異邦人が自分達に熱心に語り掛けるのを聞いている内に分かり、罪を悔い改めて救われたのです。福音を伝えるには根気が必要です。彼らはバルナバに言われるまでもなく、心を堅く保って、常に主に留まっていたでしょう。しかし、どんなに信仰が燃えていても、その困難さは、私達自身の伝道を振り返れば容易に想像できます。大勢の人が信じて主に立ち返った理由は何でしょう。それは「主の御手が彼らと共にあった」からです。人の思いと力だけでは不可能です。伝道が実を結ぶには、主の助け、聖霊と信仰に満ちている人の働きが必要なのです。その為には一人一人がキリスト者と呼ばれるに相応しい人になりましょう。その為には主に祈り、御言葉を頂く時間を大切にしましょう。主の御手が私達と共にあるなら、私達はキリスト者として生き生きと世の人々に福音を語れます。大勢の人が救われる喜びがこの教会に満ちます。