メッセージ(大谷孝志師) |
悪霊に勝つ主イエス |
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年9月10日 聖書 マルコ1:21-34 「悪霊に勝つ主イエス」 牧師 大谷 孝志 |
悪魔、悪霊という存在が聖書によく出てきますが、どんなものかを考えたことがあるでしょうか。映画やドラマに悪魔や悪霊が登場します。羽としっぽが生え、耳が大きく、口が大きく裂けた形相の持ち主であったり、普通の人間に見える姿で、人を悪へと巧妙に誘う悪魔の場合もあります。毎月学ぶヨブ記では、サタンが、ヨブが災いに遭ったら、ヨブは神を呪う筈と神に言い、策を弄して、彼の心を神から引き離そうとしています。 しかし新約聖書に出てくる悪霊は、人を精神的、肉体的に苦しめますが、人を神から引き離そうと誘惑していません。今日の箇所のように、悪霊は主に完全に服従し、主の命令下にいます。悪霊は、主がこの世に来た子なる神であり、救い主と知っています。ですから、悪霊は主の言う通りに行動します。悪霊の方が私達よりも主イエスのことをよく知っているのです。私達は、御霊のことを本当はよく分かっていないから、聖書の御言葉や祈りの中で響いた御言葉に忠実に従えないのではないでしょうか。悪霊と御霊の両方について分かっていることが大切と教えられます。悪魔は今もこの世に存在します。悪魔は今も、様々な方法を使って私達の心の隙に入り込み、主から私達を引き離そうとしています。聖書は、悪霊についてどう教えているのでしょうか。ヤコブ3:14-16に、苦い妬みと敵対心は悪霊に属するものであり、妬みや敵対心の有る所には、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いが有るとあります。人には皆、欲しいもの、なりたいもの、身に着けたいものが沢山有ります。人のものが欲しい思いが心を占め、自分の心が制御しきれなくなると誘惑に負け、悪いと分かった上で、人を欺いたり、人が傷付くようなことをしてしまいます。私達はその時、自分の心が痛みます。ですからやむを得なかったとか、仕方がなかったとか、相手も悪かったと色々な理由を付けて、痛みを紛らわそうとします。しかし重要なのは、それらは自分が悪霊に負けた結果だということです。なぜなら、人は悪い事をする時、これは主に喜ばれると考えてしていないからです。ヤコブ4:3にこうあります。「願っても受けられないのは、自分の快楽の為に使おうとして、悪い動機で願うからです。」パウロもロマ15:3で「キリストでさえ、ご自分を喜ばせることはなさらなかったのです」と言います。主は私達を罪の世界から救い出す為にこの世に来て、十字架に掛かって死なれたのです。自分を捨て、自分の十字架を背負って死んで下さったのです。私達は自分が自分を喜ばせることを第一にしていたら、悪霊が喜び、主が喜ばないことをしていると認めましょう。それが悪霊の働き掛けを拒絶し、主に喜ばれる事をする者となれる為の第一歩を踏み出すことになります。 今日の箇所では、安息日の礼拝を守っていた人々の中にいた汚れた霊が、主のイエスの教えを聞いた後、「ナザレの人イエス。いったい私達に何をしようというのです。あなたは私達を滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です」と突然叫びだしました。この悪霊がどんな害をその人に与えていたかは分かりませんが、心身が異常な状態だったのでしょう。27節にあるように、人にはどうにもならず、教えを聞き、讃美するのに邪魔になる声を発したことは当然考えられます。しかし、その人も礼拝の一員として受け入れられていたのです。5章にゲラサ人の地での汚れた霊に憑かれた人の話があります。彼は鎖を引きちぎり、足枷も砕いてしまうのですが、人に対して凶暴だとは書かれていません。 人々は、主が悪霊を従わせ、追い出したと聞くと、ごく自然に主の元にそのような人々を連れて来ました。イエスから「黙れ。この人から出て行け」と言われた汚れた霊がその人をひきつけさせ、大声を上げて出て行ったとあるので、びっくりさせられます。主は人々の求めに応えて、悪霊を追い出しました。悪霊追放というとオーメンという映画の恐ろしいシーンを思い起こしますが、悪霊に憑かれた者を連れて来た人々も、悪魔を追い出す主も、ごく自然で、恐ろしさという感情は微塵も感じられません。 ここで私達は、聖書がこのように悪霊・悪魔について記している意味を考えましょう。一つは、イエスが悪霊を簡単に押さえ付け、支配する超人間的力を示すことによって、この方は神に遣わされて来た方であると、人々に分かり易く説明する為だと考えられます。もう一つは、病人と悪霊に憑かれた人々を並んで記すことによって、人にはどうすることもできない問題でも、イエスの元に来て、イエスに願えば全て解決して貰えること、イエスが神の性質を備えていることを、人々に伝える為と考えられます。 最後に、主はなぜ悪霊の言動を押さえ付けたのでしょう。悪霊は主がこの世に来た子なる神であり、救い主と知っていました。しかし人々は特別な人としてイエスを受け止めても、その本性をまだ知らないので、自分達の願いを叶える王としようとする可能性がありました。悪霊が、人々が御心を正しく受け止められずに方向違いに進むことを利用し、主の救いの業の広がりを阻止するのを防ぐ為です。主は、癒しを求める人の求めに応え、癒し続けました。今も人々を苦しめ悩ます悪霊が働いています。主は癒し主と私達自身が信じ、癒しを求める世の人々に、イエスこそが真の癒し主と伝えましょう。御霊の存在と力を信じるように、御業を妨げる悪霊の働きを認めましょう。私達は困難や苦難に無力ではありません。主は共にいて悪霊に勝ちます。主は、災いから人々を解放し、救いを、癒しを求める人を受け入れ、その求めに応えて、人々に真の平安を与えて下さいます。 |