メッセージ(大谷孝志師)
何が一番必要か
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年9月10日
聖書 使徒3:1-10 「何が一番必要か」 牧師 大谷 孝志

 今日の箇所の奇跡が起きたのは、聖霊降臨日の後、間もない日のことでした。午後3時はユダヤ教では、夕方の犠牲を献げて祈る時でした。この時間にペテロとヨハネが宮に上っていったことは、使徒達が敬虔なユダヤ教徒として生活していたことを表しています。そして、奇跡は人が主を礼拝し、人の心が主に向く時、主が喜ぶ事をする時に起きると知らされます。しかし私達は、そうすれば奇跡が起き、私達が求めるものを主が与える、と決め付けていけないのは勿論です。

 一人の足のきかない男の人が、宮に入る人達からの施しを求める為に「美しの門」に毎日置いて貰っていました。彼はペテロ達が宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。彼は金銀を必要としていたからです。ペテロ達はその男を見つめて「私達を見なさい」と言いました。すると彼は何かもらえるかと思って、二人に目を注いだ(注目していた)のです。3-5節は「見る」という行為を、四つの違う言葉で表しています。私達は主を唯見ているだけはないでしょうか。私達は、肉眼で主を見られないので、心に思い浮かべることしかできません。その時、ぼんやりと主の事を考えたり、心の中にしても口に出したにしても、漫然とそうしているだけに終わっていないでしょうか。主の呼び掛けを感じ、それに答えるように主を見つめたことはありますか。色々と迷い、悩む中で、主がどんな方かを知りたくて真剣に主を見つめたことがあるでしょうか。或いは、主から何かを得たいという期待だけで主を見ていた時はないでしょうか。私達が主をどんな思いで見ているかを、聖書はこの四つの違う動詞を通して考えさせているのです。

 彼は最初にペテロ達を見た時、他の人と同じ事を期待しました。しかし彼らは、この男の人を自分達の心に留まらせる思いをもって彼を見つめました。そして彼が自分達に注目することにより、彼に何が一番必要かを知ったのです。私達は様々な人から、見られ、求められています。私達はその人々をじっと見ているでしょうか。教会の看板やチラシを見て、連絡をしたり、質問してくる人もいました。一生懸命対応したつもりでも、相手の姿勢を勝手に判断して、中途半端な対応をしなかったかと反省させられます。どんな人でも、それを好機として捕らえ、相手が何を一番必要としているかを見抜けるよう、御霊の助けを求める必要があるのです。私達は御霊の助け無しには人の心の深みを知ることはできないからです。

 施しを求めた人は、私達を見なさいと言われ、お金か何かを貰えると期待しました。人は皆、自分が陥っている状況からの脱却を期待し、事態が好転し、求めるものが与えられることを期待します。使徒達は施しを求める人が期待するものは持っていなくても、私達はあなたを抜本的に変えることで、根本的に応えられると言います。施しを求めた彼は、できる事なら、立ち上がり歩けるようになるのを求めていた筈です。そのように、世の人は何が一番大切かが分からなくなり、当座必要なものを不可欠なものと錯覚し、執着し、混乱している場合があります。

 私達の力では、そのような要求に応え、相手の状況を変えることは不可能です。しかし私達は、相手に一番必要なものを提供できます。私達が信じる主が、その人の人生を変えられ、主には全てが可能と信じるなら、相手に一番必要な変化の機会を提供できるからです。人にはできないが、どんな事でも、主にはできます。相手が、自分はこの人達が信じる主の前にいると感じさせることができたなら、そこに奇跡が起きると信じましょう。全ての事は主が実現して下さるからです。