メッセージ(大谷孝志師)

不可能を可能にする主
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年9月17日
聖書 使徒12:1-11 「不可能を可能にする主」 牧師 大谷 孝志

 使徒の働きには5:19に「主の使いが牢の戸を開き、彼ら(使徒達)を連れ出し」と有り、10:3に「幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼の所に来て、『コルネリオ』と呼んだ」とあります。彼は幻の中で、御使いと対話しています。今日の箇所では、牢の中のペテロの所に突然御使いが現れ、彼の脇腹を叩いて起こし、「急いで立ち上がりなさい」と言い、鎖が彼の手から落ちました。彼は御使いの言う通りに行動し、第一、第二衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開きました。

 ペテロは牢に入れられ、兵士達に監視されていました。彼は二本の鎖に繋がれ、二人の兵士の間に寝かされ、番兵達が戸口で牢を監視していました。ヘロデ王は教会の最重要人物の彼を最も効果的に処刑する為に、このように最大限の努力をしました。彼は絶体絶命の危機に立たされました。聖書はこの事を通して、主にとっては救い出せない絶体絶命の危機はないのだから、どんな状況に置かれても主を信じて安心していればよい、と私達に教えています。主は私達が不可能と思う事を可能にする方なのです。

 彼は真っ暗闇の牢の中で、兵士達に監視されていました。彼は死を意識していたと思います。教会は彼の為に祈り続けたとあります。しかし、彼がその状況の中で祈っていたとは書かれていません。教会は彼の救出を期待し、熱心に祈り続けていても、彼は御使いに叩き起こされるまで寝ていました。彼は救出されてもされなくても、どちらでも良かったのだと私は思います。彼は死の時が迫っていると感じても、全てを主に委ねていたのです。何の期待もしていないから、何もしないで寝ていたのです。御使いはその彼を起こし、鎖を外し、身支度をさせ、外に連れ出しました。私達も、絶体絶命の窮地に立たされることがあるかも知れません。しかし、主を信じるなら、脱け出す為に自分が何をしなければないかを考え、焦る必要は有りません。主に任せればよいのです。主は御言葉を与え、私達を御心のままに導きます。主は束縛から解放し、御業を行わせる時、人間の側の準備も資格も必要としないのです。人は全てを主に任せればよいのです。

 彼は少なくとも数日間は牢に入れられていました。任せていても辛かったと思います、それに、剣で殺されたヤコブはペテロにとっても特別な存在でした。彼とその兄弟ヨハネとペテロの三人は、重要な時に主が同行させたからです。彼にとってヤコブが殺されたことは大きなショックだったと思います。なぜ主は彼を簡単に殺させたのか、と主に尋ねていたかも知れません。主の御心と分かっていても、尋ねずにはいられず、祈り尋ね続ける内に疲れ果ててしまったのも、彼が眠っていた原因かも知れません。

 聖書は、主はペテロが救出を願い、祈り求めたから、その祈りに応えて御使いを遣わしたのではないと記しています。主は私達が祈り求めるから、応えるのでなく、主は私達一人一人に何が必要かを知り、必要な時に必要なものを与える方だと、聖書は教えています。主は「求めなさい。そうすれば与えられます」と教えました。それは真理です。でも私達は、何をどうも求めて良いか分からずに、祈れない、求められないと落ち込むことがあります。しかし主は、私達が万策尽き、疲れ果てようとも、私達を包み込み、必要なものを与える方なのです。私達はそのような主を信じ、愛され、守られています。私達は「幸いな人」とされているのです。感謝です。

 さて「教会は彼の為に、神に熱心に祈り続けて」いました。ステパノやヤコブのように彼が殉教の死を遂げても、その魂に平安を与え、永遠に安らかに過ごせるよう祈っていたのでしょうか。彼を救出し、命を長らえさせて下さると信じて祈っていたと思います。しかし、御使いに救い出され、彼らが集まって祈っていた家にペテロが来たのに、彼らは彼が来たとは信じられませんでした。彼が入り口の戸を叩いた音を聞いて出てきた女中は、ペテロの声だと分かると大喜びで、祈っていた人々に伝えました。しかし彼らは「あなたは気が狂っている」と言いました。彼女が本当だと言い続けたので、彼らは「彼の御使いだ」と言います。ペテロを守る御使いが、彼の状況を知らせに来たのだと思ったからです。神が為されたことを、自分達の常識で判断し、理解出来る範囲で共通理解を得ようとしたのです。私達もうっかりすると同じような間違いを犯してしまうことがあるので、気を付けましょう。神は、全世界の教会が成長していく為にペテロを御使いを遣わして救い出し、キリスト教を抑圧しようとしたヘロデ王の目論見を打ち破りました。私達は神に愛されています。神は私達の教会を愛し、人々をここに招いています。私達の教会を成長させて下さっています。

 圧倒的神の力に守られ支えられていても、自分ではどうにもならない時があります。でも神が共にいるので大丈夫です。ロマ11:36に「全ての事が、神から発し、神によって成り、神に至る」とあるように、全ての事は神が目的を持って、完成に向けてしている事だからです。それでも自分の弱さ、至らなさに落ち込む時もあります。でも、自分の知恵や力に頼る必要は有りません。神は私達が生き生きと生活出来るように、必要なものを必要な時に与えるからです。私達がそれを信じ受け取れるようにと、神は私達に聖書を与えています。一人で、或いは共に聖書を読み、祈る神との交わりの時を大切にしましょう。心が霊的に研ぎ澄まされ、神の御業に敏感になり、恵みと平安を豊かに戴けます。神は私達が何者であろうと、私達を用いて御力を現し、私達の周囲の人を救います。神に不可能はありません。