メッセージ(大谷孝志師)
私達は幸いな人
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年9月17日
聖書 マタイ5:1-12 「私達は幸いな人」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人達のものである。悲しむ人々は幸いである。その人達は慰められる」と言います。普通「心が貧しい」という言葉は良い意味では使われません。悲しむことは辛いことで、決して幸いなことではありません。主はなぜこう言ったのでしょうか。それは、主が人の心が豊かではなく貧しいことを知っていたからです。それに人生には喜びと同じくらい悲しみがあるのを知っていたからです。聖餐式の中で教会の約束を唱和しますが、その中に「互いの喜びと悲しみを共にいたします」と有ります。無条件で出来る事、皆が普通にしている事ならわざわざ約束しないでしょう。約束するのは、主を信じていても、人の喜びを喜び、悲しみを悲しむのがとても難しいからです。しかし難しくても、人が共に生きようとする限り、諦めたり、逃げたりせずに、克服しなければならないと分かっているので、私達は約束するのです。

 人の心の奥底には、他人の幸福を羨み、不幸を喜ぶ醜いものが渦巻いています。主イエスは、心の貧しさやそこから生じる悲しみに直面する人、苦闘している人を放っておきません。主はその人達の為に十字架に掛かって死に、復活して共にいます。一人一人の置かれた状況は違いますが、主は、心の貧しさ、悲しみから解放され、必要な新しい見方を見つけ出す為の道を全ての人に開いています。その事実を人に気付かせる為に、主は一見不思議に思える言葉で語り掛けたのです。

 とは言え、心の貧しさに痛みを感じ、多くの悲しみを抱えて生きるのは辛いことです。「幸いですよ」と主に語り掛けられていると知っても、とてもそうだとは言えないでしょう。しかし主イエスがそう言うのは、それが事実だからなのです。それが事実なのは、主がご自分の命という代償を払って、その人が幸いな人になれるようにしたからです。それが分かるなら、その人は「幸いな人」になれます。

 だからと言って、心の貧しさ、悲しむ事が自体が良いことだと主が言うのではありません。心の貧しさを感じる人、悲しんでいる人は自分は不幸だと思いがちです。その人はその気持ちから解放されることが必要です。ですから主は、そのような状態にある人は、実は今幸いだと教えるのです。主がそう言うのは「天の国はその人達のもの」だからです。天の国は死後に行く世界ではありません。今、私達が生きている世界です。心が貧しく、悲しむ人を、今、主である私がしっかりと捕らえ、見守り、必要な恵みを与えていますと主は教えます。だからその人は幸いなのです。主のこの言葉は、聞く人に不審な思いを抱かせるかも知れません。人は何かが無い状態は良くないと考えがちだからです。こんな話があります。「あなたのお子さんは良い所が何もないどん底の状態です」と先生に言われた母親が「では、この子は後は良くなるだけですね」と笑って言ったそうです。後日、その子が何十人もの社員を使う社長となり、中学生の頃、成績優秀で将来を嘱望されていた同級生をしっかりした人なのでと会計の責任者にしていると、母親が先生に知らせてきました。あの時の母親の笑顔は教師には見えない事実をしっかりと見抜いていた安心感から来る笑顔だったと、先生はその時分かったそうです。

 主は全てを知り、無い人を愛し、必要なものは与えられる方です。ですから、自分には無いことを認めればよいのです。「主は羊飼い。私には何も欠けることがない。主は私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い 魂を生き返らせて下さる(詩23:1-3)。」この主に養われましょう。私達は「幸いな人」になれます。