メッセージ(大谷孝志師)
無いことを知る幸せ
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年9月24日
聖書 マタイ5:5-6 「無いことを知る幸せ」 牧師 大谷 孝志

 イエスは心の貧しい人達、悲しむ人達に続いて、柔和な人達、義に飢え渇く人達も幸いだと教えます。義に飢え渇く人達については、どうして幸いなのかなと思い、主が意味するのは何かを知りたいという思いになります。それに対し、柔和な人達が幸いなのは当たり前のように思ってしまいます。イエスがこのように言ったのは、柔和という言葉が、私達が受け取る印象とは違う言葉だからです。柔和という言葉は、柔軟で他人と和やかな気持ちで接することではなく、ユダヤでは、寛容、謙虚、我慢等を意味する言葉です。非暴力的イメージを持ち、受け身になって相手を許容する優しさを感じさせる言葉なのです。イエスがこの言葉でどんな人の事を言っているかと言うと、自分の心を神に、そして人にも開け放つ人です。単なる穏やかな人というより、自分の力では問題解決、状況の改善は無理だと認め、神に信頼して目的を達成しようとする人を指していると考えられます。主ご自身もマタイ11:29で「私は柔和で、謙遜な者」と言っています。マタイ21:5で主は「柔和な方」と呼ばれています。イエスは神の子なのにと不思議に思うかも知れませんが、聖書を読むと。主は度々父なる神に祈り求めています。主は死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで神に従順でした。主は、神に心を明け渡し、神に信頼して、自分の為すべき事させて頂いています。それは、私達が自分の力で問題を解決しようとせず、私達が他の人に対して優しい心で接し、共に幸せに生きられるようにする為に模範を示し、道を整える為なのです。

 主はこの世で生きる上で大切なことは、何ができるかではないと教えています。大切なのは、心の正しさであり、神に対してどう生きるかということなのです。例えば、主が弟子達を宣教に送り出す時も、「杖一本の他に何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持つな(マルコ6:8,9)」と命じました。弟子達が人から与えられる物だけで生活するよう命じたのです。それは何故でしょうか。人は頼れる物があると、神を第一にしなくても自分は生きられると考えてしまうからです。そうなると、人には勿論のこと、神の優しさに頼らなくても、生きられると考え、傲慢になります。それでは人の心は豊かにならず、幸いな人にはなれないからです。神に頼らなければ、神がしてくれるのでなければ自分達には何もできないと自分達を素直に認められる人が幸いな人だ、とイエスは私達に教ええています。

 主は次に「義に飢え渇く人」は「幸いである」と教えます。「義に飢え渇く人」も、無いことを自覚する人です。世に悪や不正が横行するのは、神の義を求める人がいないからと知っているけれども、自分にはどうしようもないと自分の無力さを思い知らされている人が、義に飢え渇いている人です。主は義に飢え渇いている人を放置せずに「正しい事をしたい、正しい事が出来るようにしたい」という思いを、その人に与えてくれます。主は自分達に無いことを知って、ご自分に求めてくる人に恵みを与え、道を備えてくれます。だからその人は幸いなのです。

 主は柔和な人達は「地を受け継ぐ」と言います。義に飢え渇く人達は「満たされる」と言います。私達は、自分に無いもの、この世の中に必要な物が無いと知る時に不平、不満を感じるのではなく、主に求め、主に与えられる喜びを与えられる時だと気付きましょう。その時こそ、心を真っ直ぐに神に向けましょう。神に求め、与えられましょう。神の自分への愛を感じ、求めに応える神の力を感じること程素晴らしいことは有りません。神に愛される幸いな人になりましょう。