メッセージ(大谷孝志師)
情けは人の為ならず
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年10月1日
聖書 マタイ5:7-8 「情けは人の為ならず」 牧師 大谷 孝志

 「情けは人の為ならず」という格言があります。これは誤解されている格言の中で最たるものと言えるそうです。これを<人に情けを掛けるとその人を甘やかすことになり、その人の為にならない>と誤解している人が多いからです。実はこの格言は<困っている人を助けて上げると、回り回っていつか自分も助けられることになるから、人に親切にして上げなさい。人に親切にするのは大切なことなのだよ>というもので、豊かで正しい人間関係を前提にしている言葉なのです。

 「憐れみ深い者達は幸いです。その人達は憐れみを受けるからです」という主の言葉を聞いて、そんな事は当たり前ではないかと思うかも知れません。主がこのように言ったのは、現実の世界ではそうならないことが多いからです。神の国、主と共にいる私達の信仰の世界では、それが当たり前だと気付かせる為です。相手を大切に思い、心から可愛そうに思って、善意や好意でした事が相手に受け入れられず、正当に評価されない経験をすることがあります。人間は、どうしても裏があるのではないか、下心があるのではないかと考えてしまい易いからです。とても悲しい事ですが、この世では、悪魔が人を誘惑して、悪い方へと物事を考えさせるからです。憐れみを受けた人に感謝の気持ちを起こさせず、表させないので、相手は拍子抜けしたり、逆に悪い事をしたのではと思い、相手の為に必要な事があれば、またしようという気持ち起きず、関係がこじれてしまいます。それに対し、主を信じる者の世界では、相手のことを考え、その気持ちを正しく受け止めようとし、相手も必要な事をしてその気持ちに応えようとするので、憐れみ深い人が憐れみを受けられます。だから互いに幸いな世界に生きられます。

 主は、<主を信じる世界の人々は、好意を好意として受け取られ、憐れみ深い人は正当な報いを受けられるようになる>と教えます。悪魔の誘惑に負けずに、主の教えに従いましょう。そうすると結果を気にせず、相手に必要な事が出来るようになり、自分も相手も幸せになれるように生きられます。そして主の「憐れみ深い者は幸いです。その人は憐れみを受ける」という教えの通りになります。

 続いて主は「心の清い者達は幸いです。その人は神を見るからです」と教えます。これも当たり前と思うかもしれませんが、「心が清い人」はこの世で言う清廉潔白な人とは違います。単に心が清いのではなく、清くされている人のことです。主は十字架に掛かって死に、この先何が分からないと不安や恐れに襲われる闇の世界から、喜びと希望に満ちた光の世界に主を信じる私達を移して下さっています。人は闇の世界にいるままだと、自分の心が暗いので、相手が信じられなくなり、分からなくなります。相手に親切にできなくなり、相手の気持ちを受け入れられなくなってしまいます。心の壁が自分と相手を隔てるからです。悲しいことです。幸せではありません。分かり合えれば幸せになります。主は十字架の死によって、分かり合えるよう、互いの善意をそのまま受け入れ合えるよう心の壁を取り除いて下さったのです。私達は相手に親切にでき、相手の親切を安心して受け入れられるのです。心の壁は人間同士だけでなく、主との間にもありました。主と出会い、主を信じると、主との間の心の壁が除かれ、心が清くされ、主の教えを素直に信じられます。しかし、悪魔は何をしても神は分からないと誘惑します。ですから自分の心は清いと信じ「神を見る」人になりましょう。霊の目で自分を受け入れ、一緒にいる神が分かると、人は安心して共に生きられるからです。