メッセージ(大谷孝志師)

何を第一としているか
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年10月8日
聖書 マルコ1:35-45 「何を第一としているか」 牧師 大谷 孝志

 今日の箇所で、主イエスは自分が何を知らせる為にこの世に来たのかを自分の口で言っています。1:15の「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」と人々に知らせる為です。これはとても大切な知らせです。主が来たことにより何が起きているかを示しているからです。「時が満ち」は、神が人の罪を赦し、神の民に回復する計画の為の準備の時が満ち、実行する時が来たことを示します。「神の国は近くなった」は神の国が全ての人の近くに来ていることを示します。しかし、人が神の民となり、神の国に生きる為にはすべき事があります。それは悔い改めて福音を信じることです。「悔い改める」とは「自分は罪を犯しました。ご免なさい。赦して下さい」と言うことですが、それだけでは有りません。「悔い改める」とは、「罪から離れ、自己正当化する生き方を方向転換し、信仰と従順と愛という神を第一とする生き方に立ち返ること」つまり、主イエスに従うことです。それが全ての人に与えられている神からの良い知らせ、神の福音だから、それを信じなさいと、主が宣教活動の初めに言ったのです。

 今日の箇所を見ますと、主は「朝早くまだ暗い内に起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈って」いました。「出る」とは「離れる」ことなのです。主は弟子達から離れ、一人になったのです。何の為でしょうか。父なる神との霊的交わりの時を持つ為です。私達にとっても、例え短時間であっても、一人退いて、主との霊的交わりの時、デボーションと言いますが、祈り、聖書を読み、瞑想する時を持つことは大切なことです。シモンら弟子達は主を探しに来て、見付けると「皆があなたを捜している」と言います。

 この後、主が彼らを離れたもう一つの理由が明らかにされていきます。皆は何で主を捜したのでしょう。病人や悪霊に憑かれた人々を、ガリラヤ湖畔の町カペナウムにいた主の元に連れて来ると、主が癒したからです。人々は癒し主である主を必要としたから捜したのです。しかし、主が世に来た第一の目的は、奇跡を行い、人々の状況や状態を改善することではありませんでした。ですから主は「カペナウムに戻ろう」ではなく「近くの別の村里へ行こう」と言います。主が世に来た第一の目的は「福音を知らせる」ことだからです。私達が教会に来るのは、無いもの、必要なものが与えられたり、失われないことを求めて来るのではないと気付きましょう。主イエスを、父なる神を礼拝する為です。私達が今、ここに来ているのは、他の何ものでもなく、主イエスを、父なる神を第一にしているからです。礼拝を休む時があります。それは礼拝を休んでする事を自分が第一にしているからです。主は自分にとっての第一は福音を伝えることだと言います。

 しかし、39節のように主は福音を知らせるだけでなく、悪霊も追放しました。神を第一にして生きるなら、福音を信じるなら、人は悪霊から解放され、希望をもって喜んで生きられると人々に経験させる為です。私達も、私達が礼拝に行っているのを知っている人々に、神を第一にする生活をするなら、素晴らしい人生を送ることができると示すことが大切だと教えられます。私達は福音を周囲の人達に知らせる為に、今を生きているのです。

 次の物語も大切な事を教えます。ある時、らい病人が主の所に来ました。らい病人は、律法で汚れた者とされ、社会から自分を隔離しました。誰かが近くに来たり、やむを得ず人通りのある所に出る時は、「私は汚れた者です」と連呼し、警告を発する義務が有りました。しかし彼は、自分から主に近付きました。律法に従わない事をすれば、人々から非難されます。彼は律法に従うより、主の元に願い出ることを優先させたのです。彼にとっての第一は、主に願い出ることだったからです。彼は必死の思いで来ました。しかし「あなたがしようと思えば、私を清くできます」と彼は言います。自分の思いを第一にするのでなく、主の意志を第一にしたからです。

 私達も主を信じ、全てを主に委ねているつもりでも、自分の思いを優先させ、願いが実現しないと主に不平不満をぶつけることがあります。しかし主が全ての決定権を持つのです。全ては主が決めて行う事なのです。私も、七十にして漸く主に全てを任せるしかないと悟れました。これは大変楽です。あれこれと悩んだり、苦しんだりしないで済むからです。しかも主は最も良い事をしてくれます。ですから、安心して主に任せられます。

 主が「そうして上げよう。清くなれ」と言うと、直ぐにらい病が消えて清くなりました。私達はそのようにする主を信じています。しかし主は、彼を厳しく戒めて、立ち去らせました。「厳しく戒めて」は「怒鳴りつける」、「立ち去らせ」は「追い出す」という意味の言葉です。「気を付けて、誰にも何も言うな」も否定を重ねた強い調子の言葉です。主が厳しい言い方をしたのは、人は自分の状況や状態が良くなることと主を信じることを切り離すのが非常に難しいからです。主は彼に、清くなった自分を祭司に見せることだけを命じます。彼が主に癒されたのは、彼と神の関係が正しくされたから、彼を聖なる者として神が受け入れたからなのです。それを人々に明らかにする必要があるから、主は彼に命じたのです。しかし癒された人は、出て行って主イエスが自分の人生を変えた素晴らしい方だと言い広めました。彼は自分に起き、自分が経験した素晴らしい出来事を人々に伝えずにはいられなかったのです。彼は、自分が御力によって自分が清められ、幸せになったと皆に言いたくて仕方なかったのです。それが私達にもできる伝道なのです。私達も自分が戴いた主の恵みを伝えれば良いのです。