メッセージ(大谷孝志師)
平和とは何でしょう
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年10月8日
聖書 ママタイ5:9-10 「平和とは何でしょう」 牧師 大谷 孝志

 主は「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです」と言います。「平和」、ヘブル語でシャロームは、単に戦争のない状態を言うのではありません。何かが欠如したり、損なわれていたりせずに、物質的なものを含め、必要なものが充足している望ましい状態を言う言葉です。言い換えるなら、神に祝福された状態です。しかしそれは、全てが思い通りになり、経済的、精神的に豊かな生活を意味するものではありません。清く貧しく美しい生活こそが、平和な生活だと言えます。お金が無い、食べ物が無い、着る物が無い、それでは困るという人もいます。しかしそれらがあれば平和に生きられるかというと、実はそうではありません。貧しさに負けさえしなければ、良いのです。仏教の悟りの一つに「我唯足れりを知る」があります。今ある物で十分であるとする所に真の平安があると言う考え方です。パウロもピリピ4:11で「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と言います。この事を学べるからキリスト者は強く生きられるのです。

 パウロは、自分の強さでなく、弱さを誇っています。自分の弱い部分や無い所は神が満たす為に空けている所と信じるからです。この世では、自分や家族に必要な物が欠けていたり、損なわれていたら、それが満たされ、改善されなければ、幸せではないと考えます。そうすると欲しいものしか見えなくなり、他人がどう思うとも、誰が傷付こうとも、手に入れることは正当な権利の行使と考えてしまいます。そのような人の心は決して平和であると言えません。

 主が言う「平和をつくる」とはどういう意味でしょうか。先ず自分が無いものを数えるのでなく、今が望ましい状態にあると、現状に満足して生きることです。現状を肯定するだけでは敗北主義になり、成長も発展もないのではと思うかもしれません。しかし自分が現状に満足することにより、心に他人の苦悩や貧しさ、悲しみに配慮出来る心の豊かさが生まれてくるのです。実際、多くのキリスト者が自らを投げ打って社会のタブーに挑戦したり、路上生活者などの人々が少しでも平安に生きられるよう働いています。しかし現実には人々の救いの為に働きながら、迫害され、殉教の死を遂げた人々もいます。例え、そうであっても、「義の為に迫害されている者は幸い」と主は言います。「主を信じるなら幸いな人生を生きられる」と、人々に主の福音を知らせて迫害されても、主は天の御国をその人の為に既に用意しているからです。平和とは何かと言えば、主が共にいる世界、御国に生きていることなのです。主が共にいて、助け導き、必要なものを必要な時に与えるから、キリスト者は安心して平和にこの世に生きていられるのです。

 主は山上の説教で、満ち足りている人が幸いなのではなく、無いことを知り、神に満たされることを求め、与えられる人が幸いと教えています。人はどうしても努力し、戦い、獲得しようとします。主は目に見える人の力に頼っては幸いな人になれないと言います。パウロが言う「空を打つ拳闘」をしているのと同じだからです。自分自身を静かに見つめましょう。そうすると、無いこと知り、主に祈り求め、主に任せている自分が、十分に幸せであると気付きます。主に祈り求めるなら、求めるものが与えられ、捜すものを見出せ、門を叩けば空けて貰えるからです。私達は無いものがあっても幸いなのです。これからも幸いな者として歩ませて頂けます。私達はその主を信じ、その主が共にいて下さるからです。