メッセージ(大谷孝志師)

主が共にいるなら
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年10月15日
聖書 使徒13:42-52 「主が共にいるなら」 牧師 大谷 孝志

 私がこの教会の牧師に赴任して半年が過ぎています。私は、この教会で喜んで主の為に働けることを感謝しています。私が喜んで牧師をしていることは、皆様にとっても良いことだと思います。私が苦しく辛そうにしていたら、皆様も苦しく辛くなり、先生、もう替わって下さいと言いたくなると思います。皆様が聖日礼拝を大切にして、例え用事があっても工夫して、礼拝に来ているのは、今の状態が良いと感じているからだと思います。

 私は皆様に「主が共にいるなら自分には、自分達には何でも出来る」と知って欲しいと思っています。そして私自身は今、「主が共にいるから何でもできる」と信じています。私も人間ですから長所も欠点もあります。そう信じられるのは、主が私をこの教会の牧者に選んで遣わしたからです。私達の信仰の一番肝心な所は、主が生きて働き、全てを知り、御心のままに全てを行うということです。ですから、ここにいる人、礼拝を休まざるを得なかった人、全ては主に招かれてこの教会に連なっているのです。パウロがⅡコリント12章で教えるように、誰もがこの教会に必要なのです。礼拝に出るだけで精一杯なので、体の調子が悪くて、奉仕ができませんと言う人もいます。礼拝に出るだけ、礼拝の為に今いる所で祈っているだけでも十分なのです。神はこの教会と一人一人を愛し、必要な時に必要なものを与えていて下さいます。主が共にいるなら大丈夫、安心だと信じましょう。

 パウロとバルナバはシリアのアンテオケア教会の人々が断食と祈りをし、二人に手を置いて送り出しました。人々が送り出しましたが、伝道する場所に送り出したのは聖霊と聖書は記しています。彼らも主が共にいるから大丈夫と信じて伝道生活を続けます。主は先ずキプロス島で、彼らにご自分が共にいることを御力をもって示しました。この島のローマ総督を救いました。この半年、主は共にいることを様々な出来事により私達に示しています。私達はそれらの恵みを心に刻み、熱心に祈り、行動しましょう。先週も言いましたように、自分は何を第一としているかを吟味し、主を第一とすること、主を礼拝することを先ず心掛けて生活していきましょう。

 二人はピシデヤのアンテオケアに着き、安息日(礼拝の日)に会堂の席に着きました。会堂の管理者達は二人の噂を耳にしていたのでしょう。奨励してくれるよう頼みました。彼は最初に「イスラエルの人達、並びに神を恐れかしこむ方々」と会衆に呼び掛けます。ユダヤ教徒とユダヤ教を信じるが割礼を受けない異邦人がこの会堂に集っていました。彼が明らかにした神の御心は、聞く人々の心を強く動かしました。そして、今日来なかった人にも聞かせたいと、次の安息日にも同じ話しをするよう頼んだのです。

 この町の人々は、十字架に掛かって殺されたイエスは、自分達が信じる神がこの世に遣わした救い主であり、死者の中から霊の朽ちない体で復活し、今も生きて働いているとパウロの説教によって始めて知らされました。彼らの反応は、私達の周囲の人達がイエスは外国の人、キリスト教は外国の宗教と受け取るのとは全く違いました。自分達の神が行った素晴らしい事だと受け止めました。そして、知らされた神の御心を行い、悔い改めてイエスを主、救い主として信じ受け入れなければ大変なことになると分かったのです。ですから次の安息日にも同じ話をするよう二人に頼みました。

 私達は、聖書の話を事実として信じいますか。聖書は私達に、主が共にいる素晴らしさを教えています。確かに聖書に記されている事を主にして下さいと求めても、主がしてくれない経験を私達は嫌という程しています。しかし私達が礼拝している神は、「どんなことでも、神にはできる(マルコ10:27)」方です。主は救い主として世に遣わされ、世界を大きく変えました。主は今も生きて私達と共にいます。信仰の目でそれを見極めましょう。

 「次の安息日には、殆ど町中の人が神の言葉を聞きに集まってきました」先日の大矢総主事の話では、ミャンマーのカチン族の殆どの人が礼拝に集まってきます。フィリピンや韓国等には、千人を超える信徒が礼拝に集まる教会が幾つもあります。私が神学生の頃、同盟の集会にこの教会からも十名を超える青年が来ました。主はそれらの国や昔に働いたが今は沈黙し、何もしないのではありません。ヘブル13:8にあるように「イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも、同じです」。私達の信仰が問題なのです。

 大群衆がパウロの話を聞きに集まって来たのを見たユダヤ人達は、嫉みに燃え、パウロ達を口汚く罵りました。このユダヤ人達は50節に「神を敬う婦人達や町の有力者達を扇動して、…二人をその地方から追い出した」とあるように、ユダヤ教指導者達と思われます。昔、聖日礼拝の時に教会の回りをスピーカーで叫んで回る人がいました。一人なので余り気にしませんでしたが、集団で来たらぞっとしたと思います。パウロとバルナバは大勢の人に罵られてもびくともしませんでした。主が共にいたからです。そして「あなた達は自分から神の恵みを拒んだのだ」と二人の方から断絶を宣言します。人々は自分達の神、主が共にいるのに気付かず、神に背を向けたのです。二人は挫折せず、新しい方に向かいます。主が自分達を異邦人の光とし、彼らに救いをもたらすよう命じていると言い、多くの異邦人を救いに導いたので、福音がこの地方全体に広まりました。主は、私達が祈り求めれば応え、驚くべき事を行います。先ず、私達の信仰の姿勢を正し、主に従うことを第一にしましょう。主は共にいるから、主は私達の思いを汲み取り、豊かな祝福を与えてくれます。心から主を讃美しましょう。