メッセージ(大谷孝志師)
他人は自分より大切ですか
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年10月15日
聖書 マタイ5:13-16 「他人は自分より大切ですか」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは弟子達に、あなたがたは「地の塩」「世の光」だと言いました。地の塩と言っても、海の塩に対する岩塩としての地の塩ではありません。世の光がこの世の人々の為の光を意味するように、地の塩は地上に住む人々の為の塩という意味です。塩は他の物に溶け込むことにより、その良さを引き出します。また、相手が悪くならないよう状態を正常に保つ働きをします。当時の光の光源は油です。油が光り続ける為には、自分を燃やさなければなりません。地の塩と世の光には、相手の為に自分を無くして相手の為に役目を果たす共通点があります。

主は弟子達に「あなたがたは、地の塩、世の光です」と言いました。彼らを弟子とした目的の一つが、彼らを地の塩、世の光とすることだったのです。彼らが主の弟子であるとは、地の塩、世の光とはどう生きる人であるかを、主は「八つの幸い」を通して教えていました。「自分が無い者であることを認め、主に与えられるものによって生きる」生き方です。これによって、主を信じ、主に従う者は、地の塩、世界の光として、世の人々の為に生きることができるようになるのです。そして主は、ご自分が十字架に掛かって死ぬことにより、私達に地の塩として生きる模範を示し、復活して全ての人の主として生きることにより、私達が世の光として生きられることを示し、ご自分のように生きよと教えたのです。ですから、私達は自分を無にして必要なら自分の命を捨てでも他人を生かす為の役目を果たすことができます。とても難しい事です。自分より他人を大切にしなければいけないからです。自分にはできないと思うかも知れません。しかし「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という主が与えている大切な戒めを行うことなのです。私達も主イエスを信じるなら、世の人々の為の地の塩、世の光になれます。地の塩となることは、自分を捨てることですが、自分が滅びて無くなってしまうのではありません。逆に、自分を救うこと、永遠に生きる者となることなのです。

 世の光については、二つのことが教えられています。遠くにある光は点にしか過ぎません。それは私達を包みませんが、私達に進むべき方向を示します。また、近くにある光は、私達の周囲に何があるか、私達はどう行動したらよいかを知ることができます。私達は光として輝くことができます。それは他の人の為に自分が存在することを意味します。ですから、光を枡の中に置くようなことをしたら、主の弟子としての役目を放棄したことになります。部屋ぐらいの枡を考えてみましょう。枡の中は明るいでしょうが、枡の外の世界は明るくならないし、どこに自分を照らす光が有るのか分かりません。光が光である理由も意味もないことになってしまいます。光としての自分を相手に曝すことが大切なのです。主はそのように他人を自分より大切にする所に、主の弟子である意味があると弟子達に教えています。私達が地の塩であると同時に、世の光である為には、もう一つの光の性質を知ることが大切です。私達は自分が光であることが自分一人では分かりません、相手からの反射によって、自分が相手を照らしている光であると自覚できるのです。光としての自分を相手に曝すこと、つまり、証と伝道の大切さがここにあります。他人がいるから、私達は自分が主に招かれて主の弟子となり、地の塩、世の光とされていると知ります。主は相手を自分より大切にしなさいと命じています。何故なら、それが本当の意味で自分を大切にすることになるからです。私達は「他人を自分より大切にしているか」と、主に問い掛けられています。