メッセージ(大谷孝志師)

人生をどう理解するか
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年10月22日
聖書 ヨブ3:1-10 「人生をどう理解するか」 牧師 大谷 孝志

 人生には想定外の事が起きます。それが災いだと嘆き悲しみ、呻きます。パニック状態になる時もあります。2:7-13節のヨブは外見の印象では冷静です。しかし彼を慰めようとして来た友達は「声を上げて泣き、自分の上着を引き裂き、塵を天に向かって投げ、自分の頭の上に撒き散らし」ました。彼らの七日七晩の沈黙が、彼らが受けた衝撃の大きさを表しています。

 ヨブは口を開くと先ず、自分の生まれた日を呪いました。彼は自分の存在そのものに意味を見出せなかったのです。生きているのが嫌になる程、彼は苦痛に喘いでいたのです。しかし、彼は辛く無意味であっても、自死しようとはしていません。自分には理解できなくても、神が自分を世に誕生させ、祝福してきた過去があるからです。彼の姿勢は、私達が想定外の出来事に遭い、嘆き苦しむ時の為に、覚えていて良いことです。ですから彼は、友達が悲嘆にくれる程、無惨な状態に苦しみながらも、神を呪わず、生まれた日を呪ったのです。彼は全力を尽くして神に喜ばれるよう生きてきました。しかし、これだけは避けたいと思っていたのに神から災いを与えられたのです。彼は2:10で「私達は幸いを神から受けるのだから、災いをも受けなければならない」言いました。聖書は、サタンに唆されて、何の理由もないのに自分を滅ぼそうとした主に対して、自分の誠実を堅く保ったヨブを「このようになっても、罪を犯すことをしなかった」と言います。人は悲惨な状況に立たされると、神を否定し、信仰を止めたくなります。私は教会を離れたそのような人を知っています。しかし、何度も何度も神に突き落とされても、神にしがみついて、礼拝に来続けた人も知っています。ヨブ記は私達に、神を信じるとはどういうことかを考えさせます。そして「あなたは自分の人生をどう理解しているか」と問い掛けます。

 ヨブはここで、神を呪わないで、自分の生まれた日を呪いました。彼は神がこの世界を、そして自分を造られた方であると知っています。つまり、自分の誕生は神がしたことです。また、神が光を創造したから、人はこの世界に自由に行動し、生きられると知っています。しかし彼は全ては闇の中に消え失せ、消滅せよと言います。神の存在は否定しないけれど、神の創造の働きを否定しています。自分が生まれたから、こんなに苦しい目に遭わなければ成らない。自分が希望を感じる一切は消えて無くなれと言います。光があるから、自分が生きている世界と悲惨な状況にある自分を比べてしまう。だから全てが暗闇のままであれば、自分の苦しみが少しは軽くなると考えたのです。ここまでヨブは追い詰められています。しかし、彼は自分が死ぬことによってこの状況から逃れようとは考えてはいません。

 彼はそのような中にあっても、苦しむ自分を客観的に見ています。彼は、何故自分は胎から出た時、出産の時、死ななかったのか、何故自分を育てる人がいたのかと言います。彼は死んでいたら、死後の世界で平安に豊かに、そして皆が平等なので、闘いもなく、安らかに過ごしていただろうにと考えます。勿論想像に過ぎません。しかし、彼はその想像の世界に逃げ込んでいたのではありません。確かに彼が置かれた状況は、そのような事でも考えなければ、耐えられなかったのかも知れません。彼は様々な可能性を考えます。だから彼は絶望しないのではありません。彼は自分が神に生かされていると知っていたからです。彼は自分の力では何もできません。でも生きているのです。主イエスを信じていても、教会の交わりの中に生きていても、残念ながら、人から理不尽な扱いを受けたり、口汚く罵られたりすることがあります。精神的ストレスから体調を崩したり、トラウマになり、長く苦しむこともあります。この世のグループの方がさっぱりして良いとすら考えてしまいます。

 しかし主は生きて働いています。私達の中にはまだバプテスマを受けていない方もいますが、主が生きて働いていると知る程、安心できることはありません。必要な時に必要な事をしてくれるからです。全てを主に任せ、委ねて生きる素晴らしさを知って欲しいと思います。とは言え、簡単なことではありません。私も随分長い間葛藤したり、試行錯誤を繰り返しました。一生懸命教会のこと、教会員や求道者のことを考え、神に喜ばれることができるよう祈りつつ、努力しました。それぞれ豊かな実りを経験しました。でも今になって考えると、結局は自分がしたい事、できる事をしていたのに過ぎなかったのです。24-26節の「実に、私には食物の代わりに嘆きが来て、私の呻きは水のようにあふれ出る。私の最も恐れていたものが私を襲い、私の怯えたものが私に降り掛かったからだ。私には安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心はかき乱されている」というような苦しい事も沢山ありました。23節に「神が囲いに閉じ込めて、自分の道が隠されている人に、何故、光が与えられるのだろう」と有りますが、神に自分の過ち、欠点を暴かれると辛いものがあります。「神よ、そこまで私を痛めつけなくても良いのでは」と叫びたくなります。ヨブも逃げ場のない辛い状況に押し込められています。でも、彼は共にいる神を意識しています。

 私達もどんな状況に置かれても、自分は神の国にいると意識することが大切です。私が生きているなら、神は私を生かしているのです。何の為にかどう考えても分からない時もあります。でも、神は神にしか分からない理由と目的を持って生かしているのです。それを知ると自分の人生の見方が変わります。神に全てを任せ、安心して日々を過ごせるようになります。