メッセージ(大谷孝志師)
完全な者になれますか
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年10月22日
聖書 マタイ5:43-48 「完全な者になれますか」 牧師 大谷 孝志

 私達は、自分は完全になれないけれど、相手に対しては完全を求めることがあります。自分は同じ間違いを繰り返しても、人間だから、誰でもしてしまうものだから仕方がないと考えます。でも、他人が同じ事をすると、あの人は駄目な人だと考えます。逆に、結構自分は完全だと心の中で思っている場合もあります。また、深く傷付き、トラウマになるような事をされたり、言われたりし相手にその事を言うと、「そんな事を気にしてたの」と軽くいなされてしまうこともあります。自分はそんなに悪い事をしていないと思っても、相手に深い痛手を与えている場合もあります。人は、自分の行為が起こす影響を過小評価しがちなのです。

 主イエスは「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全であれ」と言います。神のようになれという意味です。パウロは自分が書いた手紙の受取人である教会の人々を聖徒と呼んでいます。主イエスを信じる者は、聖書の中では「完全な者」「聖徒」と呼ばれます。二千年前の教会の信徒が立派だったからそう呼ばれたのではありません。パウロは彼の手紙の中で教え、励まし、戒め、正しい道に導こうとしています。彼らも私達同様に不完全な人々だったのです。

 何故彼らは「聖徒」と呼ばれたのでしょう。それは主イエスの十字架の死によって罪を赦され、弱く神に喜ばれない事をする罪人のままで神に受け入れられる者、つまり、聖なる神と共に生きる聖なる者とされたからです。人は自分の力では完全な者にはなれません。では、なぜ主はなれないことを分かりながら、人々に「完全な者になりなさい」と言ったのでしょう。人は完全な者になろうと志すことによって、神に成らせて頂けるのです。これが私達に与えられる素晴らしい恵みです。勿論、この世に生きる限り私達は完全な者にはなれません。でも、完全な者になることを目指すことによって、相手と正しい人間関係を持てるようになるのです。自分と相手の現実を素直に認められるようになり、且つ、正しく評価できるようになるからです。とても良い事です。

 主イエスが「完全な者になりなさい」と言うもう一つの理由は、人が自分の力だけで生きていこうとすると、誤った完全主義に陥る危険性があるからです。人は安心し、自分の思い通りに生きたいと考えます。それには自分が完全だと思い込む必要があり、相手も完全であることが必要になります。そうでないと安心できないからです。そこに相手への不満、裁きが生じ、自分や相手を傷付けてしまうことが多くなります。人が主を信じ、救われ、主のように生きようとする時、自分の弱さ、不完全さを素直に認められ、限界を知り、謙遜を学び、謙虚になれます。ですから、主にあって完全な者になろうとする意志が必要になるからです。

 だから、主は徹底して完全に成りなさいと命じるのです。21節以降「〜と言われたのを、あなたがたは聞いています」という言葉が繰り返されています。主はここで「昔から律法を守れば完全になれると教えられてきたが、神が求めている完全はもっと徹底したものだ」と教えているのです。例えば「隣人を愛し、敵を憎め」と言われてきたが、本当に神が求めるのは「隣人を愛し、自分を迫害する者の為に祈ること」だと教えます。主は一見不可能に見え、それができたら素晴らしいと思える生き方を示します。主は相手の立場に立った相手の為の生き方を可能にする為に十字架に掛かって死んだのです。その生き方が、主が求める完全な者の生き方です。主はその道筋を教えます。その道を歩む者になりましょう。