メッセージ(大谷孝志師)
純粋に善い事をする
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年10月29日
聖書 マタイ6:1-5,16-21 「純粋に善い事をする」 牧師 大谷 孝志

 誰でも人に叱られるより、褒められる方が良いと思います。善い行いをすれば褒められます。善い行いとは人を救ったり、守ったりした場合です。相手にそれが必要だからしたのでしょうが、それをすれば自分が損をすると分かっている場合はどうでしょうか。いじめられたり、脅かされている人を助ける場合、自分もいじめられると思ったり、自分も怪我をさせられるかも知れないと思うと躊躇し、見て見ない振りをしてしまうのではないでしょうか。結局は善行をする時は、自分に得になるから、損をしないことが分かっているからする場合が多いのです。

 しかし、イエス様の当時のユダヤ人が善行をする場合、損得以上に気になることがありました。第三者に見られているかどうかです。その行為が、人々や神の自分への評価を上げる上で、役に立つかどうかだったのです。何故かというと、彼らは一定の線まで善行を積み重ね、天に宝を積むことによって、神(天)の国に入れると信じていたのです。彼らは善行の意味を勘違いしていたのです。ですから主は「人に見せる為に人前で善行をしないように気を付けなさい。そうでないと、天におられるあなた方の父から報いが受けられません」と先ず教えたのです。

 施しや祈り、断食をする人が、損得や結果を考えてしたら、逆に目的を達成できないのです。それでは神からの報いを受けられないからですと主は教えます。私達から見れば、ここで主が取り上げている例は極端に思われます。しかし、当時の人々には、あの目立ちたがり屋さんのことを言っているのだなと内心うふっとしながら、直ぐに思い出せる光景だったと考えられます。イエスは例え用いて話す時、生活に密着した、人々がよく見かける光景を題材にしていたからです。

 さて実は、善行は神が私達に向上する為に与える機会なのです。しかし躊躇し、見ぬ振りをすれば、向上の機会を逃し、自分の弱さや惨めさだけが心に刻み込まれる結果に終わってしまいます。ですから主は、善い行いを純粋な思いでするよう求めるのです。善行は相手だけでなく、自分の心も豊かにし、神との関係も正しくし、人々が求めている神の報いが与えられるからです。何故人々は純粋に善い事が出来なかったのでしょう。彼らは善い事を行う時、神に正当に評価されることを願っていました。しかし、神は見えず、声も聞こえず、評価を知ることができないので、その保証を他の人間に求め、自分はこんな善い人間だと人々に知ってもらうことで安心しようとしたのです。でも人の評価はそんなに安心できるものではありません。人の評価は掌を返すように変わり易いものなのです。

 主は、人間というあやふやなものにしがみつくのではなく、神にしがみつきなさいと教えます。神は隠れたことを見ていて、私達が願う前から、私達に必要なものをご存知なのです。それを信じればよいのです。ですから「施しをする時、右の手のしていることを左の手に知らせるな」。「祈る時には会堂や通りの四つ角に立って祈るな」。「断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗え」と言います。善い行いをする時は、人目を気にせず、純粋な気持ちでしなさい。自分と相手にしか分からなくて善いのです。そっと、相手に必要な事を自分にも必要な事として、謙虚にしてあげればよいのです。自分の喜びが相手の喜びとなり、相手の喜びが自分の喜びとなる善行を神は喜びます。人の目から隠し、神が隠れた所で見ていると信じればよいのです。私達には何の確証もありません。でも、それが見えない神を信じる第一歩なのです。その信仰を神は喜ぶと信じましょう。