メッセージ(大谷孝志師)

罪を赦される幸い
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年11月12日
聖書 マルコ2:1-12 「罪を赦される幸い」 牧師 大谷 孝志

 私達の教会は、何故ここに建てられ、働き続けているのでしょう。主がこの地の人々に福音を知らせ、人々が救われる為です。私は牧師をしていますが、東京都足立区から転居した千葉県柏市に伝道所が有ったからです。でも伝道所が有っただけでは、私は救われませんでした。近所に伝道所に熱心に通っていた女性が近所にいたからです。その女性が自宅での家庭集会や女性会の集会に母を誘ってくれました。母は父と観世流の謡曲の二つの会を主催し、助産師の仕事をしていたので、礼拝には余り行けなかったのですが、高校生になった私に教会に行くように言ってきました。母は一人っ子の私の子育てに熱心でした。小学校の遠足は勿論、一泊の修学旅行にもついてきました。しかし思春期の私に自信が無くなり、教会の人達に任せたら少しはましになると考えたからのようでした。当時の柏伝道所にそのように思わせるものが有ったからなのですが、母をそこに誘い、その良さを知らせる人がいなかったら、母は私に教会に行けとは言わなかったと思います。人は人によって教会に誘われ、信仰へと導かれるのです。26日の「ミニコンサート」のチラシができあがりました。どんなに素晴らしいコンサートでもそれを知らなければ、人々はこの教会には来ません。ですから、今週ご近所にチラシを配ります。私は、知っている方には一声掛けてお誘いしようと思っています。母も誘われて教会に行き、私も母に言われて、教会の行事に出席してみて、教会の良さを知ったからです。この教会の良さはここに来てみなければ、主を信じることの素晴らしさは、主を信じている人に触れて、話をしてみなければ分からないからです。

 主イエスがカペナウムの家にいると多くの人が集まり、戸口の所まで隙間のない程になりました。そこに中風の人が四人に担がれて来たのですが、中に入れませんでした。何としてもイエスの近付きたかったのでしょう。彼らは主がおられる当たりの屋根をはがし、穴を開けて中風の人を寝かせたまま吊り降ろしたのです。当時の庶民の家の屋根は、木材の張りの上に木の枝を渡し、筵などの敷物を敷き、その上に土を盛って踏み固めただけなので、比較的容易に穴を開けられたからです。建材が落ちて来、土煙が人々を襲った筈で、下にいる人には大迷惑な話です。聖書はその事に全く触れてせん。それはこの出来事を通して、彼らのようにイエス様に必死に近付くことの大切さを私達に教えているからです。主に近付こうとすると、様々な障害があります。それは主が私達に主に近付こうとする意志と努力を求めるからです、最初が肝心なのです。信仰生活は誰にとっても山あり谷ありです。信仰生活はこの世の悪の力との戦いなのです。主はその為に、試練を通して私達を成長させます。パウロが使徒14:22で言うように「私達が神の国に入るには、多くの苦しみをへなければならない」と言えます。私達の信仰が成長するに従い、より多くの世の人々に福音が伝わります。

 主は彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦されました」と言いました。律法学者達はイエスの言葉を聞いて、「神を冒涜している」と考えました。8節に、彼らが「心の内でこのようにあれこれと考えているのを、イエスはすぐにご自分の霊で見抜いて」とあるように、主は人の心の中を見抜く方です。私も、主に私の思いを見抜かれていた経験が有ります。心の内で考えた事が急に実現したり、頓挫したりしたからです。主は、中風の人と四人の友達と律法学者達の心の内も見抜いたのです。

 私達も律法学者達のように、主の言葉をそのまま信じられない時があります。主が直接私達に語り掛けてきたら、信じられるでしょう。主が見えないので、信じられないのです。彼らもイエスが病人を癒し、悪霊を追放するのを知っていた筈です。でも、ただの人としか思えず、主が神の独り子、全ての権威を持つ方とは分からなかったのです。周囲の人々も世界にはキリスト者が沢山いて、大きな働きをしてきていることは知っています。しかし、イエスが今も生きて働く自分の主であるとは知りません。主は、律法学者達に「人の子(私)が地上で罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知る為に」と言って、その人の中風を治し、歩かせます。皆は驚き「こんな事は、いまだかつて見たことがない」と言って神を崇めました。律法学者と家の中にいた多くの人達のイエスへの見方が一変したのです。今、主が病気の人を直したら、世の人のイエスの見方が一変するでしょう。主は奇跡を通して自分の存在を示しません。主は今の私達にとって必要な方法をとらせています。主を信じる者は救われ、神の子とされ、永遠の命が与えられることを、私達が言葉と行いを通して家族や友人に示すよう求めているのです。自分にできる事は何かを考えさせ、できる事をする努力を私達に求めています。私達も相手も共に救いに与り、幸せになる為です。

パウロは「いつも喜びなさい」と言います。でも私達がいつも喜んではいないとしたら、イエスのことも周囲の人のことも自分のことも分かっていないのです。「あなたがたは世の光です」と聖書にあっても、自分は世の光になれないと思ってしまうからです。主イエスを信じる人は、救われ、罪を赦されているので、この世の中で、いつも喜んでいられるのです。

 中風の人と友人達は必死の思いでイエスに近付こうとしました。私達が罪を赦されたと知り、いつも喜んでいたいと思うなら、彼らのように、大胆に主に近付きましょう。主の姿は見ませんが、これ迄の教会に来ていて経験した様々な事の中で、主は確かに自分と共にいると感じたがある筈です。私達は罪を赦され、神の愛の支配の中にいて、いつも喜んで生きられるのに、心が鈍くなって様々な雑念に惑わされて、主が共にいるのをぼんやりとしか感じられないことが多いのです。彼らのように大胆に主に近付くなら、主が手を差し伸べているのに気付きます。主は「誰も滅びることが無く、全ての人が悔い改めに進むことを望んでいる」からです。一人でも多くの人が罪を赦され救われるよう、私達も大胆に主に近付きましょう。