メッセージ(大谷孝志師)

因果応報ではなく
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年11月19日
聖書 ヨブ4:1-11 「因果応報ではなく」 牧師 大谷 孝志

 ヨブの呻きと嘆きの言葉を聞いたエリファズが語り掛けます。彼と二人の友人は、酷い災いに苦しむヨブを慰めようと遙々旅をして来ました。彼はヨブを尊敬していました。「あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたの言葉は躓く者を起こし、くずおれる膝をしっかり立たせた」と言っているからです。友情篤い、心優しい人だったと私は思います。

 でも彼は、ヨブの言葉を聞いていて黙っていられませんでした。彼は神が罰しているヨブに間違いを認めさせ、正しい道に引き戻そうとします。彼はまず「もし誰かがあなたにあえて語り掛けたら、あなたはそれに耐えられようか」と言います。彼は自分は正しい事を言おうとしていると思っています。人に注意しようとする人は、自分の言う事は正しいと思うから注意できます。違うかも知れないと思えば言えません。更に他の人達もそう思っていると思うと安心して注意できます。ですから彼はヨブを非難する自分は、多数意見の代弁者として非難していると言います。でも非難にはリスクが伴います。間違っている相手を非難し、相手との関係が気まずいものになり、予想外の反撃を受けることがあります。また、周囲の人から弱い者いじめをしたように受け取られたり、傲慢な人間だと思われたりして、自分の方が集団の中で孤立させられてしまうこともあります。自分はどうしても相手の非を許せないと思っても、相手を非難することはとても難しいのです。それで、いけないことですが、この世でも教会の中でも、非難せずに黙っておこうとする場合もあるのではないか、と思います。

 エリファズは黙っていられませんでした。ヨブは自分が尊敬してきた人です。ヨブは、間違い犯した人を訓戒し、もう今の生き方を続けられないと弱気になってしまった人々を力づけてきた人です。人は誰も、御心が分からなくなる時があります。神は何故このような事をし、また人がするのを許すのかと疑問に思って、神に失望し、神に背を向けてしまうこともあります。人の知恵と力には限界がありますから、思った通りに事が運ばず、目標や生き甲斐を見失う人もいます。ヨブはそれらの人を助け、導いてきたのです。神の恵みを豊かに受けているとしか思えないヨブが、神を冒涜しているとしか思えない言葉を並べ立てるのを聞いていて、彼は、我慢できなくなったのです。そこで自分を奮い立たせてヨブに反論します。「あなたはこれ迄の自分の生き方とは逆の事を言っているではないか」と。人に対しては「それくらいの事は我慢できるでしょう」と言えても、いざ自分が同じような目に遭うと、なりふり構わず騒ぎ立てる人がいます。他人事と自分の事では雲泥の差が有るからです。エリファズが「今これがあなたに降り掛かると、あなたはこれに耐えられない。これがあなたを打つと、あなたは怯えている」と言うのは、人には偉そうなことを言っても、ヨブが同じような目に遭って醜態を晒しているとしか思えなかったからです。

 そこでエリファズはヨブに「あなたは神を恐れることを大切にし、神に喜ばれる潔白な行いができるよう望んでいたではないか。あなたの確信と望みはどこに行ってしまったのか」と言います。3章でヨブは、自分には罪はないと言っていないし、正しい人だとも言っていません。しかし彼にとって、ヨブがこのような災いを神に下されたことは、ヨブが罪を犯したこと、正しい人でなかったことを明らかにしているとしか考えられなかったのです。彼は「因果応報」、「善因善果、悪因悪果」、つまり「善い事をすると善い結果を得るし、悪い事をすると悪い結果になる。ですから、幸せになりたければ善い事をしなさい。悪い事をすると不幸になります 」という教えに立っていたからです。聖書の教えは一見すると、因果応報が主流に見えます。ダビデにしろ、ソロモンにしろ、聖書に登場する殆どの人々が、神の戒めを破り、神に喜ばれない事をして裁かれています。しかし、パウロはローマ11:18で「神は、人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままにかたくなにされるのです。」11:16で「事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」と言います。大切な事は、同じく11:33で「ああ、神の知恵と知識との富は何と底知れず深いのでしょう。その裁きは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り難いことでしょう」と彼が言うように、全ての事は御心によると信じ、受け入れることなのです。実はヨブ記はその事を私達に教えているのです。

 エリファズは、因果応報的考えによる自分の信仰的確信をヨブに押し付ける間違いを犯しているのです。先程の箇所に続く12-21節を見ますと彼の間違いが更に明らかになります。彼は恐ろしい声を聞きました。その声はヨブについて「人は神の前に正しくありえようか。その造り主の前に清くありえようか。」と言いました。しかし神は1:8で「「お前は私の僕ヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」とヨブの正しさを認めています。エリファズは自分が神の声を聞いたと思い込み、ヨブは自分が正しいと思っているようだが、神の前に正しい者はいない。だから、自分の誤りを認めて罪を告白せよ。そうすれば、神はヨブを赦し、悲惨な状態から救いだし、神の恵みに満ちた状態の中で平安を与えるだろうと言います。しかしそれは神の声ではないし、彼の言葉は信仰的確信に基づく推測に過ぎ無かったのです。

 ヨブ記は、私達も同じ間違いを犯すことがあると教えます。どうすれば人は御心を知ることができるのでしょう。パウロは聖書以外にはないと教えます。テモテ二3:16にあるように「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益」だからです。その聖書を通して少しでも正しく御心を知るようにと主が牧師を与えています。牧師という人が語る言葉を、一人一人が御霊に助けられて、自分に語り掛けられている主の御言葉として聞きましょう。そうすれば相手をそのままで受け入れ、助け、支え合い、麗しい交わりの中で、主と共に生きられます。