メッセージ(大谷孝志師)
正しく人を裁くには
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年11月19日
聖書 マタイ7:1-6 「正しく人を裁くには」 牧師 大谷 孝志

 主イエスは、ここで私達が陥りやすい間違いを鋭く指摘し、その間違いの根本的解決方法を教えます。しかもそれを分かり易い例えで教えています。

 私達は、人に酷い事をしたり、問題発言や行動する人に会うと、裁かずにはいられなくなります。人を裁くことは、余り後味の良いものではありません。それでも私達は他人をつい裁いてしまいます。でも、自分では裁くことが正しいと考えても、裁くと問題が大きくなるし、相手との関係が悪くなると考えると、裁かないでいようと考えがちです。でも、子どもが間違いを犯したら、その子の将来を考え、大人としての自分の責任を考え、間違いは正さなければいけないと思うのではないでしょうか。また大人同士でも、集団の中での自分の立場上、裁かざるを得ない場合もあります。人は、自ら進んで、或いは仕方なく、人を裁きます。しかし主は、「どんな裁きでも、相手を裁くと相手から同じ裁きで仕返しされることになります。人が人を裁くと、どんなに前向きに、良い方に考えても、相手を傷付けています」と教え、裁かないで済む良い方法を主は私達に教えています。

 私達が人を裁いてしまう理由の一つは、集団を維持する為、良い状態を保とうとするからです。その為には皆がルールを守らなくてはなりません。一人がルールを破ると他の人々が迷惑を被ります。ですからその人にルールを守らせようと裁いてしまうのです。人は弱いからです。人は一人では生きていけず、様々な集団を必要とします。そして支え合い、助け合い、目標を定めて共に進みます。その集団が成長し、目標を達成していく為には皆が守る基準が必要です。その基準に照らして、間違いを犯し、正しくない事をする人がいれば、間違っている点に気付かせ、正しい事が行えるようにします。その集団に相応しい者に変わる必要があるからです。これは教育的配慮に基づく裁きだと言えます。しかし、相手の言動がどうしてもその集団の方針に合わないと判断した場合は、排除という裁きをします。主が「人を裁いてはいけません」と言うのは、人が裁くとその裁きが間違った方向に進みやすいからです。人は、集団の為、相手の為だと自分に言い聞かせ、大義名分を振りかざしても、結局は自分の為に裁いているのです。裁きというものは、結果的に、集団の基準のように自分が思い、人に思わせながら、自分の基準を相手に押しつけているのに過ぎないからなのです。

 正しい教育的配慮による正しい裁きができるなら、集団は正しく維持され、成長していきます。そのような裁きを行う為には、人は梁のような自分の間違いを塵のように見え、他人の塵程度の毎違いが梁のように自分に思えること、更に、自分の目の前の梁が自分の視界を奪っているのに気付くことが必要なのです。<人の振り見て我が振り直せ>という謙遜、自省が必要なのです。自分を正すこと無しの裁きはより悪い結果を自分にも相手にもたらすことになってしまいます。

 主が人を裁くなと言うもう一つの理由は、人は相手に正しいことを言われても、自分を守る為に疑心暗鬼になってしまい、より殻に閉じ隠る弱さを持つからです。そうすると、相手の為に素晴らしい真珠を与えているつもりでも、相手は、豚が石を投げつけられているのと同じような思いになってしまう、と主は教えます。

 人がそのような弱さを持つので、主は人を裁くなと言います。裁きは、集団を維持、成長させる為に+でなく−にしか働かないのです。相手の間違いは大きく見えることに気付き、自分も相手も成長する方法を主に求める人になりましょう。