メッセージ(大谷孝志師)
黄金律
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年11月26日
聖書 マタイ7:7-12 「黄金律」 牧師 大谷 孝志

 私が幼い頃、母は「人にされて嫌だと思うことは人にするな」と教えました。これは消極的善行の勧めです。主イエスは7:12で「人からしてもらいたいことは何でも、あなたがたは同じように人にしなさい」と教えました。これは積極的善行の勧めで「黄金律」と呼ばれます。これを教える前に、主は「天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか」と言い、その後「ですから」と、この黄金律を教えました。でも主は、相手の求めを前提にしていません。「求める者に良いものを与えなさいではなく、人からして貰いたい事をしなさい」だからです。主はこの教えが「律法と預言者」だと言います。律法と預言者は聖書を指します。ですから主は「この教えを行えば神が喜ぶので、聖書の神髄を表す教えなのです」と言うのです。

 戯曲家のバーナード・ショーは「黄金律というのはないというのが黄金律だ」と言い、「人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである」という言葉を残しました。しかしこの教えは、彼が感じたような自己中心的、利己主義的発想による言葉ではなく、神中心の発想による教えなのです。私達は人に何かしようとする時、相手がこれが必要かどうかを考えます。しかし相手の心の中までは読めないので、推測による自分の判断で必要だと思った事をします。でもそうする前に、相手に本当に必要かの自信が無く、躊躇してしまうことも多いと思います。それでも現実には、即座に判断して、実行しなければならない場合に直面する時が良くあります。その時基準になるのが、自分はこれをされたらどうだろうかという考えです。 消極的に考え、人にされて嫌な事はしない、或いは積極的に考え、人からして貰いたい事をするのではないでしょうか。どちらにしても、自分を相手の立場に置いて考えています。

 何かを欲しがる子がいたとします。親の経済的事情等を考え、親の立場で行動を決めることもあるでしょう。また、親はある程度先の事が読めるので、親として必要不必要を判断します。勿論、その子にとって本当に良い事かどうかは分かりません。しかし親は子にどちらにしても良い事をしたいと願って行動します。ですから主は、「ですから」と言って、父なる神のことを前提に出したのです。どんな親でも自分の子には悪いものではなく、良いものを与えるように、天の父は求める者に良いものを下さると信じて、自分が人からして貰いたいことは何でも、人にして良いのです。神は自分を用いて相手によい事をして下さると信じて、自分ならして貰いたいと思う事を人にすれば良いというのがこの主の教えなのです。

 この教えは神への全面的信頼と服従を前提にしています。神は自分と相手の全てを知り、そして必要な事を必要な時にするという信仰です。私達は求めても与えられない経験、求めなくても与えられる経験をし、また求め続けても与えられず、疲れたり飽きたりも経験します。実は主はこの教えを通して「人は求めれば与えられる」と教えています。多くのキリスト者が「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見出します。叩きなさい。そうすれば開かれます」と言う主に支えられ、前向き、積極的、挑戦的生き方へと押し出され、社会を変革してきました。多くの人が主の言葉に希望を与えられ、行き詰まりを打開し、勇気を奮って相手の為に生きてきました。神は求める者に良いものを与えると信じ、自分が正しいと判断した事を安心して人に行う者になりましょう。