メッセージ(大谷孝志師)

真実を知らされたヨセフ
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年12月10日
マタイ1:18-25  「真実を知らされたヨセフ」  大谷孝志牧師

 クリスマスには毎年同じ箇所を通して説教を聴いていると思います。しかし聖書は、読む度に新しいメッセージを私達に伝えます。聖書の言葉が、神の言葉となって私達の心に届くからです。先週は、御使いガブリエルがマリアに遣わされた箇所を通して、私達に告げられている御言葉を共に聴きました。今朝は、マリアの夫であるヨセフに起きた出来事を通して、主が示されている御言葉を共に聴きたいと思います。

 マリアはヨセフと婚約していました。ユダヤでは婚約期間中女性は一定期間実家で生活し、男女とも結婚したと同じ義務と責任がありました。婚約期間が終わると二人は一緒に生活をします。ですから19節は「夫のヨセフ」、20節も「妻マリア」となっています。マリアが聖霊により妊娠したことが明らかになったのは、婚約期間中でした。マリアは姦通罪に問われ、処刑される可能性がありました。だからそれを知った彼は、マリアを密かに離縁しようとしたのです。聖霊によって妊娠したと分かったということは、マリアが彼に伝えたのです。聖霊による妊娠は、御心によることは明らかです。それでも離縁を決めたのは、彼が正しい人だったからです。正しい人は、律法をきちんと守るだけでなく、同胞に対し、謙遜に優しく接する人でした。彼が優しい人だったから、、妻をさらし者にしないで済む方法を取りたかったのです。しかし正しい人は、御心に従うことを第一にする人です。それなのに何故、御心により妊娠した妻を離縁しようとしたのでしょうか。また、この事を彼が思い巡らしていたのは何故でしょうか。

 ヨセフは、マリアの胎の子は聖霊によって新しいいのちとして受肉した神の子であることは理解できました。聖書が、神は無から有を創造する方であると教えているからです。しかし彼は信じていても、妻と子は、人々の好奇の目にさらされることは明らかでした。かと言って、正しい人と自他共に求める彼には、自分の子でもない子を自分の子と嘘は付けません。例え嘘を付いたとしても、夫婦共律法に違反したとして白い眼で見られます。密かに離縁すれば、表面上は彼も彼女も世間から白い眼では見られなくなり、これが自分が置かれた状況の中で取れる唯一の道と考えたのです。

 しかしそうしたとしても、マリアと子の将来は決して楽なものではなくなります。彼は離縁するのが本当に正しいのか、別な方法はないのかと考えたのです。しかしなかなか結論が出なかったのです。人は思い巡らしていると、堂々巡りの悪循環に陥ります。人は可能性を考えて結論を出します。自分の場合は、結果が何であれ、自分が決めたのだから仕方がないと考えられます。しかし他人の場合は別です。この決心が他人の人生を左右すると思うと、どうしても一抹の不安や恐れが残ってしまうのが人間なのです。ヨセフも自分は兎も角として妻や生まれてくる子のことを考えると、藻掻くことしかできず、堂々巡りの考えから彼は抜け出せなかったのです。

 自分の思いの中で堂々巡りをしていた彼に、主の使いが現れて「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリアを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」と言ったのです。主は私達の全てをご存知で、何が御心か分からずに悩み苦しむ時、真実を示し、正しい結論へと導いてくれます。私は受浸して半年後に、伝道者になる決心をしました。しかし、それが自分の思いから出たことなのか、御心によるものなのか分からなくなり、止めました。約一年思い巡らし続けました。随分と陰で酷いことも言われました。しかし納得しなければ伝道者になれないし、いくら納得しようと思ってもできないのです。しかしその思い巡らすしかできなかった私を聖霊が助け、御言葉を示し、神学部に行く決心をさせました。

 ヨセフは自分は正しいと判断して離縁を決めても、神がそれを正しいと認めるどうか分からなかったのです。私はその彼に自分がある時まで持ち続けていた弱さを見ました。神を信じていても、本当に御心が分かっているかと自問すると、分からないとしか答えられませんでした。聖書を読んでいても、自分の都合の良い御言葉には従い、都合の悪いものは素通りしていないかという良心の声が聞こえる時がありました。祈っていても、口先だけの祈りになっていたり、祈っているだけで満足している自分を感じることがありました。礼拝していても、心から神の御前にひれ伏していない自分を感じることもありました。私は人で神ではありません。中途半端と知りながら、自分の思いと判断で、神が喜ぶと思う事をするしかありませんでした。そこに二つの問題が生じました。一つは自分がする事を神が喜んでいるかの確信できず、不安や恐れから解放されないのです。主を信じ、主に委ねていれば、平安な思いで過ごせる筈なのになかなかそうはいかず、自分が不信仰な人間に見え、落ち込みました。もう一つは、私は牧師だから主が助けると信じ、自分が正しいと思う事をすればよいと判断し、行動したことによって生じた問題です。その判断と行動が、自分の思い込みによる信仰的独断であることに気付かされた時、落ち込みました。

 ヨセフもいくら考えても何が真実か分からなかったが、結論は出さねばならない状況の中で混乱し迷っていたのです。主は彼の状況を放置されませんでした。主は彼に、御使いを通してマリアの胎の子がインマヌエルのしるしと知らせ、混迷から解放しました。胎の子は彼の目に見えませんが、妻の胎の中に確かに存在しています。それが彼に知らされた神が自分と共にいる印だと知ったのです。私達にとってのインマヌエルの印は何でしょう。それはキリストの体であるこの教会です。目に見える私達が、目に見えないキリストの印なのです。ここに私達が集まっていることが、私達にも世の人々にもインマヌエルの印なのです。主の「私は、世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいる(マタイ28:20)」との御言葉は真実です。彼が御使いに命じられた通りにしたように、私達も主が聖書を通して命じる通りに生きる者になりましょう。主は私達に正しい道を示しているからです。