メッセージ(大谷孝志師)
聖書の言葉の聴き方
向島キリスト教会 主日夕礼拝説教 2017年12月10日
聖書 マタイ13:1-23 「聖書の言葉の聴き方」 牧師 大谷 孝志

 今日の聖書は、種を蒔く人が種蒔きに出掛けた時の話です。聖書の中の有名な譬え話で、紙芝居では「四つの種の物語」という題が付いています。しかし内容的に言うと「種が蒔かれた四つの土地の譬え話」という題が適切な譬え話です。

 譬え話は3-9節です。10-17節には、主が人々に譬えで話す理由が書かれています。人々が今の状態では、話は聞いても、そこに示されている真理が正しく理解出来ないので譬えで話すのだと主は言います。しかし弟子達は、神に選ばれ、その意味を聞き、天国の秘密を悟れるので、主は19-23節でその譬えの解説をします。

 私達も今、弟子達のように譬え話に隠されている意味を知ることできます。それは主イエスが十字架に掛かって死に、罪を贖って下さったので、イザヤの預言通りだった人間から、神の恵みの器に変えられているからです。旧約の預言者や義人達が見聞きしたいと願ってもできなかったことができるのです。神の恵みを感謝しましょう。そしてこの譬え話が示す真理をしっかりと心に刻みましょう。

 蒔かれている種は四つではありません。種は無数に蒔かれています。この種は御国の言葉、御言葉だと主は教えます。この譬え話では、御言葉が現状を変えるのではないと教えていることに気付きましょう。蒔かれた悪い土地を、御言葉がそれを良い土地に変え、実を豊かに結ぶようにするのではありません。主の言葉も聖書の言葉も御言葉として私達の心に届けられます。しかし御言葉を聞いた人が直ぐに清められるのではありません。それを聞いて悟る人が祝されるのです。

 主は、何故人は聞いても実を結べないかをこの譬え話で教えます。道端は、人馬乗り物といった農業以外が利用目的の土地です。御言葉を自分には関係ないと思っている人に蒔かれた御言葉は、悪い者が来て奪い取ってしまいます。岩地は、種を蒔き、収穫する準備ができていない土地、どのように使うか決まっていない土地です。キリスト教が興味を引かれるものの一つに過ぎず、良いなと思っても、そこに根を下ろすつもりが無いから、教会生活が自分に不利益をもたらしそうになると、それを乗り越えるのは面倒だとさっさと逃げ出す人です。茨の中は、種が蒔かれる以前から様々な植物が育成している土地です。御言葉を聞いた時、それが心に新鮮に響いたのですが、悪魔の「あの人の気持ちやこの人との関係は、衣食住は、明日の事、自分がしたい事はどうするのか、牧師なら兎も角、信仰で飯が食えるか、信仰で全てが解決するか」という様々な囁きに負けてしまう人です。御言葉を聴いても、御言葉はその人の内で成長せず、実を結ばないのです。良い地はよく手入れされた畑、種を蒔くために整えた土地です。それは御言葉を聞いて悟る人で、御言葉が、或るものは百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶのです。

 バプテスマを受けた人、礼拝に出席する人が即ち良い土地なのではありません。祈り、求め、願う事によってその人の心が耕され、手入れされ、良い土地になるのです。「悟る」とは自分の頑迷さ、無理解に気付くことです。私達は礼拝や集会で、或いは一人で聖書を読んでいて、ハッとさせられる時があります。御言葉には力があり、真の光で私達を照らします。その時、人は悟るか悟らないかの岐路に立たされています。そして感動したり、後悔したりします。御言葉は、聴いた人を変革はしないが、その心を主の御心に触れさせているからです。しかしそれに気付かなければ、その人は変われず、実を結べません。主は、御言葉の聴き方に注意し、聴いて悟る人になりなさい。そうすれば幸いな人になれると教えます。