メッセージ(大谷孝志師)

主の居場所をつくろう
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2017年12月17日
ルカ2:1-7  「主の居場所をつくろう」  大谷孝志牧師

 ヨセフは、既に身重になっていた妻マリアを連れて、ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムへ旅をしました。直線距離で約百㎞、今なら車でひとっ走りで行けるでしょうが、当時は舗装されていない荒れた道を行かなくてはなりません。恐らくマリアをロバに乗せての旅だったと考えられます。身重の妻との長い旅は、想像を超える厳しい旅だったと思われます。どうしてそんな危険な旅をしなければならなかったのでしょう。クレニオがシリヤの総督であった時に、全世界の住民登録をせよとの勅令が皇帝アウグストからでたからです。歴史的にはこの事実は証明されていません。

 しかし前にも言いましたが、聖書は歴史書ではありません。この福音書を書いたルカは、全ての事を綿密に調べて、順序を立てて書いたと1:3にあります。その目的は主イエスが神の子、救い主で、主イエスを信じる者は永遠の命を与えられ、神の国に入れる事が事実であると分からせる為です。聖書は主イエスについての証の書物であり、福音を伝える書物なのです。

 だからといって有りもしなかった事を歴史的事実として書いたのではありません。今日の箇所も聖書は、主イエスがどうしてベツレヘムで生まれたのか、主イエスが世に生まれた時、世の人々は主にどんな扱い方をしたか、そしてそれらにはどんな意味があるかを私達に伝えているのです。次週のクリスマス礼拝を前に、今日の聖書箇所を通してご一緒に学びましょう。

 皇帝アウグストはローマ帝国初代皇帝で、各地を征服して地中海沿岸一帯をローマの領土とし、「ローマの平和」を実現した人物です。彼は内政面でも大きな業績を残しました。聖書は、この王の勅令に全世界が従ったと記すことにより、イエスが全世界の主であり、平和をもたらす方であることを暗示しています。そしてこの勅令により、イエスはナザレにある彼らの家でなく、旅先のベツレヘムで生まれることになったと聖書は記します。

 ベツレヘムで生まれることに大きな意味があるからです。マタイ2章に東方の博士達がエルサレムに来て、ユダヤ人の王として生まれた方はどこにいるかと尋ねた時、学者達が、ユダの地、ベツレヘムで、そこから神の民を治める支配者が出ると答えました。旧約聖書のミカ書5章にそう記されているからです。ユダヤ人はダビデの血筋の中から神によって王が立てられ、イスラエルを復興し、神がダビデ、ソロモン時代の栄華を取り戻させると信じていました。そのダビデの生誕地、一族の居住地がベツレヘムであり、このベツレヘムを新しい全世界の王の誕生地として神が定めていたのです。ですから、ダビデの家系であり、血筋でもあったヨセフは、先祖の居住地であるベツレヘムに向かったのです。そして既に妻となっていたマリアも身重になっていた身でありながら、ヨセフと一緒にベツレヘムに向かい、主イエスがベツレヘムで誕生する状況が整えられていったのです。全ては神の計画によって事が運んでいると聖書は私達に教えています。

 イエスの誕生の様子を演じる聖誕劇と言う劇があります。殆どの劇ではナザレから旅をしてきたヨセフとマリアがベツレヘムに着いた夜に主イエスが誕生し、その夜、羊飼いが、その直後に東方の博士達が来て礼拝します。しかし聖書には「彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて」とあり、彼らがある期間ベツレヘムに滞在した後、主イエスが生まれたのです。

 ギリシア語聖書にある親類のエリサベツが後にバプテスマのヨハネとなる男の子を産んだ箇所では、単に男の子を産んだとあるだけですが、マリアの場合は「彼女の男の初子を産んだ」となっています。ヨセフの妻の子であっても、ヨセフの子ではなくマリアの子であること、彼女が処女の時に、聖霊によって身ごもった子であることが強調されています。「それで」は原文では「そして」と訳す言葉です。しかし、マリアの子が救い主である印が「布にくるんで、飼い葉桶に寝ている」ことなので、全ての人の救い主が生まれたことを示す為に「それで」と訳していると思われます。

 聖書は、その「布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた」理由が「宿屋には彼らには居る場所が無かったからである」と記しています。イエスは主、救い主です。全ての人を救う為に自分の民の所に来た方です。それなのに主には居る場所がなかったのです。これは主の十字架と復活以前の人間の心の状態を表しています。人々は主を十字架に付けて殺しました。自分の住む世界には必要ないと抹殺したのです。しかし主は十字架に付けて殺した人々の為に祈り、全ての人の罪を赦し、全ての人の内に住む方となって下さったのです。そして主イエスを信じるなら、救われ、主が自分の心の内に住んでいることに気付きます。ルカは「宿屋」を荷駄の軛を解いて休む場所という意味で使っています。私達が自分の心に主がいるのに気付く時、私達は世の労苦から解放され、安らぎを得ると暗示しているのです。

 口語訳聖書では「宿屋」を「客間」と訳します。私達の心の中に住む主を、私達の大切な方として迎えているかどうかと問い掛けられていると理解したからです。マタイ12:43-45に、人から出て行った汚れた霊が休み場所を探したが見付からず、出て来た元の家に帰ってみると、家は開いたままで綺麗になっていたので、他の霊も連れて来て住み着き、よりひどくなったという主の譬え話があります。主が私達の心を綺麗にしても、空いたままにしていてはいけないのです。私達の方でもイエスを私にとって掛け替えのない大切な方として迎え、主に一緒にいて戴きたいとの思いを持つことが必要なのです。私達が自分の心に主の居場所を造ることです。そうすれば悪いものから守られ、平安を与えられ、安心して日々を過ごせます。

 私達は次週主の御降誕を祝い、感謝し、礼拝と祝会を守ります。主は私達の心にいますが、改めて自分の心に主の居場所を造りましょう。そこに、主にいて頂きましょう。自分の人生の中心に救い主イエスを置きましょう。主イエスが私の心の客間にいると意識し、心の声に耳を傾けられると、自然と主に喜ばれる事を第一にでき、どんな事でも感謝して生きられます。