メッセージ(大谷孝志師)

この一年も主と共に
向島キリスト教会 元旦礼拝説教 2018年1月1日
ピリピ 1:27-30 「この一年も主と共に」  大谷孝志牧師

 昔、一休禅師は<門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし>と、正月を迎えて浮かれている人々は、一年また死に近付いたことを知らぬ可愛そうな人々と歌った。さすが一級の宗教家。死をもって冥土への旅が始まるのではなく、現在も冥土への旅を続けていると知っていた。彼は永遠を通して現在を見る目を持っていたと言える。主を信じる者も、永遠の命は肉体の死後に与えられるのではなく、救われた時に与えられ、今を永遠に生きていると信じる。新しい天と地が現れる時に私達が神の国を嗣ぐという約束を保証する聖霊の証印という「焼き印」をこの身に押されている。だから主を信じる者にとって、死はもはや滅びの門ではなく、聖なる都、新しいエルサレムに入る門となっている。

 しかし、仏教においては、死は生、老、病、死という四苦の一つであり、人は、人生は苦であると悟ると、人生は冥土への旅であるという人生の新しい見方を得る。しかし一休は、人生は苦を苦として受け入れて歩む冥土への旅であり、正月は人にとっては浮かれる程めでたくはないと教えるだけに留まっていた。

 だから、パウロは一休を超えていると言える。パウロは「私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬこともまた益です」と断言し、「苦しみも賜った」と、苦も恵みと言う。この世の中で真理を追究した仏教と神の領域からの知識、啓示により真理を知らされたキリスト教の違いがここにある。

 聖書は「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と命じる。これこそが主に喜ばれ、祝される生き方だから。しかしこの生き方をすれば、平安で何の苦しみも無く生きられる訳ではない。また、品行方正、清廉潔白、捨私奉主の生き方をしないから、人は悩みや苦しみを味わうのでも無い。主は「あなたがたは世にあっては患難がある」と言い、パウロも「あなたがたは自分達の労苦が主にあって無駄でないことを知っている」と言う。パウロも伝道旅行の中で多くの苦しみを味わった。私達も人生に於ける苦悩は主が必要として与える賜物と知ろう。私達は一人ではない。主が共におり、心を一つにし、力を合わせられる兄姉が共にいる。この一年も、正しい信仰から離れさせようとする悪の力に、お互いに励まし合いつつ立ち向かおう。これが主が求め、パウロが勧める福音にふさわしい生き方。

 物事に全て終わりがあるように、私達の人生にも終わりがある。しかし、死は滅びではない。主イエスを信じる者は、永遠に生きる者とされている。伝道の書3:11に「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた」とある。永遠への思いを持つなら、この一年も主が共に歩み、恵みと平安を与える一年であると信じられる。死後、永遠の御国で休みを賜うまでは、まだ私達には為すべき事が有るから、今、この世に生かされていると信じよう。そうするなら、いつ終わるかと恐れることも、また同じ一年かと諦める必要もなくなる。主は、必要だから私達に新しい一年の歩みを始めさせた。いつか必ず来る終わりの日、主の日まで、一日一日を主と共に、そして兄姉と誠実に歩む一年でありたいと思う。