メッセージ(大谷孝志師)

主に招かれた私達
向島キリスト教会 新年主日礼拝説教 2018年1月14日
マルコ 2:13-17  「主に招かれた私達」  大谷孝志牧師

 ガリラヤ湖の畔におられた主イエスを見付けた人々が、御言葉を聞かせて欲しくて、みもとに集まってきました。主が、多くの病人や悪霊に憑かれた人々を癒したのを知り、神が権威を与えた方と考えていたからです。主は彼らの求めに応えて御言葉を話しました。主は人々の必要に応えて下さる方なのです。主は今も生きていて、礼拝している私達をご覧になっていて、私達のことを喜んで下さっています。そして私達が祈る時に、その祈りを聞き、私達の求めに応えて下さいます。その主に感謝しましょう。

 さて、群衆に話し終えた後、主が道を歩いていると、アルパヨの子レビが収税所に座っているのをご覧になりました。主が「私に付いて来なさい」と言うと、彼は立ち上がって主に従いました。1章のシモン・ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの二組の兄弟の場合と同じです。主は彼らの名前を知っていました。それだけではありません。ヨハネ1:47に「イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。『これこそ、本当のイスラエル人だ。彼の内には偽りがない」とあります。主は私達のこともご存知です。昔、教会の中に自分の友達はいないと思い落ち込んでいた私に、主は「私があなたの友だよ」と語り掛けて下さったのです。主は、求道中だった私と言う人間の心の中までを知り、励まして下さいました。

 レビは主の招きに応えて、そのままで主に従いました。前述のペテロとアンデレは網を捨てて、ヤコブとヨハネは父を舟に残して主に従いました。しかし、レビは何かを捨てたとは書いてありません。それどころか、彼の家で、イエスと弟子達、大勢の取税人や罪人が食卓に着いていたからです。「食卓に着く」という動詞の本来の意味は「横になる」です。ギリシア・ローマ世界では食事は寝てするものであり、この当時のユダヤ人もその風習を真似ていたからです。またこの語は「祝宴に着く」事を表す時にも使われました。レビは自分が主に招かれ、弟子となったことを皆に祝って貰いたくて、彼の家で祝宴を開いたのです。この事は彼が全てを捨てて主に従ったのではないことを示しています。自分を捨てて主に従う人は、自分のものを捨てることを求められるのではなく、自分のものは自分のものとしていて善いので、それを主に献げ、用いて頂くことを求められるのです。

 「取税人や罪人」が三回も出てきます。罪人は神の戒めを犯し、汚れた者として社会から疎外されていました。取税人は王に納める通行税を集める人ですが、今の税務署職員とは違いました。彼らは納税額を請け負い、それ以上に集めたお金が彼らの収入になりました。その為、彼らは貪欲に徴収し、嫌われていました。それに税を納める通行人には異教徒が多かったのです。ユダヤ教の神を礼拝しない者は汚れた者とされたので、彼らと接触する機会の多い取税人は罪人同様汚れた者と見られました。食事を共にするのは親しい仲間と認めることで、避けなければいけないことでした。

 パリサイ派の律法学者はこの事を特に厳しく守っていたので、イエスが取税人や罪人達と一緒に食事をするのを見て、弟子達に問い質したのです。律法学者の考えは当時のユダヤ人の常識でした。しかし主はそれは間違いだと行動で示したのです。何故でしょう。取税人らはユダヤ人の常識からというより、彼らの信仰の基準に従えば、神に喜ばれない事、神に罰せられる事をしていました。それ故、彼らはその罪の故に社会から疎外されていました。一度罪を犯すとその罪は永久に消えないのです。殺人犯も無期懲役等で、更生の道が残されますが、殺人犯の前科は一生ついて回ります。

 人間同士の感情は複雑で、厳しいものがあるからです。取税人の中には貪欲に税金を徴収した取税人もいたでしょうが、適正にした人、家族の生活の為に強引に徴収せざるを得なかった人もいたでしょう。でも一括りに見られ、辛い思いをしていた人も多かったのだと思います。人は、自分の安全の為に、相手の苦悩や悲惨さは考えずに、或いは考えようとせずに、自分の基準によって他人を区別や差別をしてしまいます。しかし主イエスは、苦悩や悲惨さの中にいるその人のそのままを受け入れて下さるのです。過去やそうなっている理由を問わずに、その人の幸せを第一に考えて下さるのです。ですから、取税人や罪人がご自分に付いて来るままにし、一緒に食卓にも着かせたのです。それがその人達の為には必要な事で、そうするのに何の問題もなかったからです。と言うより、主イエスはそうする為に、神に遣わされてこの世に来たのです。ヨハネ福音書3:16に「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人も滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」と記されています。主はこの御言葉を通りに、神の愛を実践しているのです。

 主はレビに「私に付いて来なさい」と言い、彼は主に従いました。主のこの言葉は重いものです。従うとは単に後について歩くことではありません。主と共に、主のように生きること共に、主に見られている自分を意識して生きることです。私達は主を信じていますが、主に見られていると意識していますか。主は「誰でも私に着いてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そして私に着いてきなさい」と言います。私達はこのみ言葉のように生きていますか。誤魔化したり、背を向けていませんか。

 しかしもし、そんな自分に気付いても、駄目だと思う必要はありません。主が、私について来なさいと言うのは、幸せにする為、安心して生きる者とする為だからです。主と共にいることが私達に必要だから、主は招いたのです。私達が主の赦しと救いを必要とする罪人、主の癒しを必要とする病人だから招いたのです。恵みと平安の内におらせる為に招いたのです。

 私達は主が共にいると信じて生きるなら、律法学者のように自分の基準で相手を裁き、切り捨てるのでなく、主のように相手をそのまま受け入れ、優しい気持ちで相手と共に生きられます。主は私達をそのような者とする為に教会に招いたのです。主に招かれてここにいることを感謝しましょう。