メッセージ(大谷孝志師)
主は冷たい方ではない
向島キリスト教会 夕礼拝説教 2018年1月14日
マタイ15:21-28 「主は冷たい方ではない」 牧師 大谷 孝志

 福音書を読むと、主イエスの様々な喜怒哀楽の表情を読み取れ、主がどんな方であったか想像できます。イエスは穏やかで優しい方という印象ではないでしょうか。世の人々の教会の人の印象も、穏やかで真面目な人という印象でしょう。しかしこの箇所の主は、大変冷たい印象を与えます。主は、カナンの女性が、「娘が悪霊に憑かれている私を憐れんで下さい」と必死に助けを求めているのに、相手にせず、無視し、冷たくあしらったからです。弟子達も迷惑がっています。

 彼女がいたカナンは、ヨルダン川西岸から地中海に至る広い地域で、肥沃の三日月地帯の一部でした。アブラハム、イサク、ヤコブの族長時代の人々は、この地の遊牧民族として生活していました。 その後エジプトに移住し、奴隷となったイスラエルに、神が将来与えると約束していた土地です。イスラエルが出エジプトをし、そこに入った時には、先住のカナン人がいました。イスラエルは神の助けを受けて、この土地を戦い取ったのです。ツロとシドンは地中海沿岸の町です。

 主は何故、彼女の叫びに一言も応えなかったのでしょう。彼女が異教徒だったからではありません。主はこれ迄、彼女のような危機的状況にある人の願いに、異教徒、ユダヤ教徒の区別無く応えてきました。それに彼女の叫びはユダヤ教徒のもので、彼女がユダヤ人と関わりがあったことを想像させます。だから、主イエスなら助けて下さると信じ、必死になって求めたのです。彼女は冷たくあしらわれても、弟子達がどうにかして欲しいと主に泣きつく程、しつこく付きまといました。それでも主は「私は、イスラエルの家の滅びた羊以外ののところには遣わされていません」と突き放します。彼女が拒絶されてもなお来て、主の前にひれ伏し「主よ、私を助けて下さいと」言うと、主は「子ども達のパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくない」と厳しく拒絶します。「小犬」は可愛さの表現ではなく犬畜生の類の蔑称です。侮蔑的言葉を投げつけられても、彼女は怯むことなく、「主よ、その通りです。ただ、子犬でも主人の食卓から落ちたパン屑は戴きます」と答えます。すると主は「ああ婦人よ、あなたの信仰は立派だ。その願い通りになれ」と言い、その時から彼女の娘は治り、彼女の祈りは聞かれました。

 主は決して冷たいのではありません。彼女の信仰が、借り物の信仰から、確信に満ちた本物の信仰に変わるのを待っていたのです。彼女は信仰の訓練を受けていると言えます。私達も信仰の訓練を受ける時があります。私達の心の奥底までご存知の主は、必要な時まで待たせることがあります。待つのは辛いものです。彼女には無様で惨めさすら感じます。でも傍目を気にせず、主にすがりつきます。その中で彼女の信仰が、彼女自身が鍛えられていくのを私は感じさせられました。

 娘が悪霊に憑かれて追い詰められた彼女は、主イエスが願いを叶える方と確信して来たのですが、初めはそれ程深く主を信じていません。しかし主の拒絶を通して、彼女は自分は何故この方に、このように求めているのかを考えさせられたのだと思います。そして彼女は、求めている相手が私の主であると信じたのです。主の前にいる自分を見出したのです。主が私達に求めるのは、完璧な生活でも善行の積み重ねでもありません。彼女のように主を自分の主と信じ、謙遜に一心に主にひれ伏すことです。主には全ては可能と信じ、必要な事を求め続けましょう。主は必要で有れば私達の信仰も鍛錬し、成長させてくれます。私達の主ですから。