メッセージ(大谷孝志師)

私達も預言者
向島キリスト教会 主日礼拝説教 2018年1月28日
エレミヤ1:1-12  「私達も預言者」  大谷孝志牧師

 預言と予言は違います。「予言は予め言う」ですが、預言は「預かって言う」だからです。しかしマタイ1:22に「この全ての出来事は、主が預言者を通して言われたことが成就する為であった」とあるように、預言は、主が将来行おうとする事を予め告げる予言でもあります。でも、神が預けた将来についての言葉を語るので、預言であることに変わりはありません。

 エレミヤは紀元前600年前後に活動した預言者です。イスラエル王国はソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。北はアッシリヤの移民政策により消滅しました。その後、バビロニヤとエジプトに挟まれた南のユダ王国の人々に語り掛けられた神の言葉がこの書に記されています。「エルサレムの民の捕囚」と3節にあります。これはBC587年の第二回のバビロン捕囚の出来事で、この時まで彼の活動は続きました。

 預言するとは神の意志を人々に告げることです。エレミヤの時代、北イスラエルは神に背き、他の民族の神々を礼拝したことにより、既に神により滅ぼされています。南ユダもヨシア王の時代に人々が神に立ち返ったのですが、多くの王は神に背き、神の裁きが下る時が間近に迫っていました。この緊迫した時期に、彼は自分が預言者に定められていると主に言われて、「私はまだ若いし、どう語って良いか分かりません」と断ります。しかし主は「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、私があなたに命じる全ての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出す」と言います。実は、私達も福音を世の人々に伝える預言者なのです。この時のエレミヤは二十歳前後と考えられますが、私達は幾つになっても彼のように躊躇したり、伝えることを諦めてはいないでしょうか。彼に対するように、主がはっきりと語り掛けてくれたら、主の命令に答えられるかもしれないと思う方もいると思います。

 私達の教会では第五週の聖日礼拝を讃美と証の礼拝にしています。証しは、自分に与えられた或いは体験した恵みを通して、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを人々に知らせることです。恵みを与えられたことは、キリストに語るべき言葉を与えられ、預言者とされたことを意味します。キリスト者は皆預言者なのです。でも牧師なら兎も角、讃美と証の礼拝の中で、恵みを語ろうと思っても、手を挙げるのを躊躇しがちなのが現実です。こんな事を言って証になるだろうか、あの人達のように上手に語れないと思ってしまうからです。私は高校生の時に、初めて証者に指名されました。次の聖日礼拝で証をして下さいと頼まれたのです。緊張しました。いくら考えても、何を語ったらよいのか分からないのです。教会学校の教師をしていたので、小学生に礼拝や分級で話しはしていました。でも教本があり、その原稿を読んで暗記して話していたので、話しは出来ました。証はいくら考えてもどうにもならず、礼拝迄の時間、外を歩き回りました。

 歩いていると、「主はいつも私と一緒にいる、主が語るべき言葉を教えて下さる。だから恐れず心に浮かんだことを話せばよい」というような御言葉を思い出しました。そして「これ迄様々な事が有ったが、主が共にいたので、希望をもって歩み続けられました。主に感謝です」と証できました。

 エレミヤは自分を顧みて、預言者になれないと断りました。同じように預言者になれと言われて断ったのがモーセです。モーセは主に、エジプトで奴隷となっている私の民を連れ出せと言われました。彼は民に御心だと分からせる方法を繰り返し聞き、その都度主が答えたのに「ああ、主よ。どうか他の人を遣わしてください」と断り、主の怒りを買いました。しかし、主は彼の願いを聞き入れ、彼に出エジプトの使命を果たさせました。その後、主は御心を人に伝える為に人々を預言者に用い続けました。バプテスマのヨハネ、主イエスも預言者と呼ばれました。そして新約の時代に生きる私達も、世の人々に主の存在を、福音を伝える務めを与えられた預言者なのです。とは言え、私達の殆どが私の言葉を伝えなさいと主に語り掛けられた経験を持っていません。何故、預言者になれるのでしょう。私達が主の御心を聖書や礼拝や教会の交わりの中で悟れるからです。御霊が私達に働き掛け、助けるからです。御霊は今も世の人々に働き掛けています。主が一人でも多くの人の救いを望んでいるからです。しかし私達がそうだったように、キリスト者と関わりを持たなければ、自分を愛し、働き掛けている主に気付けません。この世や教会でキリスト者から全ての人の主、救い主であるイエス・キリストの存在と福音を知らされなければ世の人は分からないのです。ですから今、私達預言者の働きが必要なのです。

 さて主がエレミヤに、民に災いが降り掛かると伝えさせたので、彼は告げることによって激しい迫害を受けます。しかし、怯むことなく語り掛け続けます。主が「彼らはあなたと戦っても勝てない。私があなたと共にいてあなたを救い出すからだ」との約束を守ったからです。今、日本では昔のような激しい迫害はありませんが、悪魔は世の人々の心を異教の神仏に向けさせ、キリスト教に無関心、無理解にさせています。この戦いも深刻です。悪魔は私達にも働き掛け、自分の信仰さえ守っていれば良いんだ、無理することはない、主が誰かを用いて福音を伝えさせてくれるから大丈夫、と囁きかけます。パウロは「立っている者は、倒れないように気を付けなさい」と言います。ぬるま湯に浸かっていては信仰を失いかねません。悪魔と戦い、預言者として生きることで信仰を正しく保て、信仰が成長します。エレミヤは戦い続け、主は彼を見守り、窮地から救い出しました。主は世の人々の為に、私達を預言者として必要としています。世の荒波の中へと私達を漕ぎ出させますが、主は真実な方です。「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備え」ています。「私は、世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいます」との約束を守る主に助けられ、預言者として歩み続けましょう。